傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幽霊と住む

 彼はそのとき高校三年生で、近くの薬科大学を受験するつもりでいた。親戚が市内で小さい薬局をやっていて、僕が資格とったらこの店をおくれよと言ったら、ああやるよと言われたのだ。それに薬科大は家から近い。
 薬剤師になろうと思ったのは理数系だったのと、薬というものにロマンティックな印象を持っていたのと、わりと暇そうだったからだ。お客が来たら薬を出してお客が来ないときには本を読もうと彼は思っていた。そうしたら大人になっても今と同じくらい読んでいられる。自分でなにか書くことだってできるかもしれない。すてきだ。そう思った。
 薬科大の願書持ってると、友だちの相宮くんが訊いてきた。もちろんと彼はこたえた。相宮くんは実にいい笑顔で言った。それ、ちょうだい。
 相宮くんは少し離れた都市にある大学の工学部を受けることになっていたはずだ。けれども成績が伸び悩んで、不安になったらしかった。相宮くんは意外と気が小さいところがあるのだ。でももう願書は手に入らない。いいよと彼は言った。あげる。でも僕それしか願書もってないんだ。代わりになんかくれ。
 そのようにして彼は少し離れた都市にある大学の工学部に通うことになった。通学が面倒だった。けれどもみんながいい大学だと褒めてくれるので少しうれしかった。まあいいやと彼は思った。薬局はもらえなくなったけど、代わりになにか探そう。
 なにも見つからないまま三年が過ぎた。彼のなかの将来の彼は相変わらず粉薬を計量し、市販薬のカタログをながめ、お客の愚痴を聞いて、本を読んでいた。どうしようかなあと思っていると、あした公務員の試験を受けるからみんなで行こうと、研究室の同輩が声をかけてきた。僕なにも準備してないと彼は正直に言った。公務員になりたいと思ったことがなかったのだ。まとめて書類取り寄せたから試しに行こう、と誰かが言った。そうかと彼は思い、駅前で受験用の写真を撮った。最終的な合格者は彼ひとりだった。
 みんなが褒めてくれるので彼は少しうれしかった。でもこんなふうに仕事を決めてもいいのかなと思った。大学院生の先輩にいいんでしょうかと訊いてみるといいんじゃないと先輩はこたえた。ためしにやってみれば。大学院もいいなって僕ちょっと思ってたんですけど。彼がそう言うと先輩は手をひらひら振って、向いてない、とこたえた。
 そうかと彼は思い東京にアパートを借りてその省庁に入った。それ以来ばかみたいに忙しくなった。久しぶりに映画観ようと思ったんだけど、と同期が言った。入ってこないんだ。切り替えができないっていうか。仕事が抜けていかない、寝るときも。彼はそれを聞いて驚きおおいに心配して病院に行ったらと言った。先輩が大笑いして一年目はそれがふつうだと言った。なんだ、きみ、ぐうぐう眠れるのか。
 彼は少しはずかしくなって弁解する。でも仕事中はすごく、緊張しています。すると先輩はもう一度愉快そうに笑った。彼は自分が眠るときの手順について考えた。最終の通勤電車で本を読む。彼は剣豪になる。彼は名探偵になる。彼は登山家になる。入浴する。眠る。本を買う暇がないと言ったら高校の同級生が不憫がって送ってくれるので助かっている。
 読書中に集中力が途切れると彼はしばしば薄い違和感をおぼえた。電車のなかにいることの違和感。ではどこが正しいのかといったら、あのちいさな薬局にいるのが、きっと正しいのだった。僕はそこを経由している、と彼は思った。薬学部に進んだ仮定上の彼の、ゆったりと十全なまぼろしの暮らしの、その気分を経由して、彼は本を読んでいるらしかった。
 ものごとに動じず、執着が少なく、丈夫で回復の早い彼は、若手官僚としてまずまずの評価を得るようになった。高校の同級生と結婚し、子が小学校に上がるころには、少しの時間の余裕もできた。彼は薬局の奥に呼びかけた。やあ、僕だよ。まだそこにいる?「彼」は振りかえって小さく手を挙げた。白衣を着て本を読んでいた。

 それからさらに二十年が過ぎましたが、と彼は言った。薬局の主はいまだ僕の近くに住んでいます。一緒に年をとっている。いい話ですねえと口にしそうになって私はあわてて口を閉じる。なにか気の利いたせりふにしたいと思う。でも見つからない。結局言う。いい話ですねえ。起きなかったことは、と彼は言う。起きなかったなりのやりかたで、僕らの人生を動かしています。おそらく。幽霊、と私は思う。起きなかった、けれどもそばにいるものを、幽霊と私は呼んでいる。痩身長躯に半白髪の、昔ふうの老眼鏡の、白衣の似合う幽霊が、私に気づいてにこりと笑う。