読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの上書きを許可する

 美しく整えられた取り皿を受け取りながら、こんなことしてくれなくていいのにと私は言う。こんなにいろいろしてもらったら申し訳ない気持ちする、デートじゃないんだし。彼は可笑しそうに、デートじゃなくたってする、とこたえる。彼女じゃなくても、女の子じゃなくても、あるいは目上じゃなくても、なんの義理もなくても。男の部下にだってする。
 やさしいんだねという安直な相づちは私からあらかじめ奪われている。だって彼はやさしくなんかない。彼はおおかたの相手に親切で、ある種の相手をだめにするまで甘やかす。けれどもたとえばその「男の部下」というのが彼にさんざん叱られて「親にだってこんなに否定されたことありません」と反発したという話を披露して古いアニメのせりふを挙げて笑った、それはついさっきのことなのだ。彼はときに人を追い詰める、罵倒する、切り捨てる、嘘をつく。
 けれども彼はたとえば私が次に曲がるべき角を教え、扉をひらいて私が入るまで押さえておく。中座しようとしたら化粧室の場所まで教える。そのとき私はさんざん笑って彼に言った。だって、そんなのって、おかあさんみたいだ。そんなつもりはないよと言ってなぜだか恥じ入っている人のような顔を彼はした。おかあさんではないよ。
 おかあさん、と私は思う。たまたま同席した誰かに過剰になにかをしてあげる彼の、おそらくそれはキーワードだ。私はその語をはじかみと一緒に箸でもって口に入れてさりさりと噛む。おかあさんはほんとうは少し怖い。おかあさんは子どもより強いから。おかあさんはできる。子どもはできない。おかあさんは、
 その気になれば子どもをぽいと捨てられる、と私は言う。子どもにはそれができない。ほんとうのおかあさんはなかなか捨てない、もちろん。でもその場かぎりの、うそっこのおかあさんはどうかな。
 私はそのように話し、彼は極細切りの大根が毛細血管めいて醤油を吸いあげるのを一秒だけ許してそれを口に運ぶ。それからこたえる。権力志向か。たしかに僕はされるのが怖いんだと思うよ。何をされるにせよ。というか、どうしてみんなが無邪気に無力な側にいられるのかよくわからない。そういう感覚ってちょっと病気っぽいとは思う。でも苦痛はないんだ、たとえばあなたが安楽に居心地よくしているのが僕は好きだ、あなたも好きだろう。
 もちろん私はそれを好きだよと私はこたえる。けれどもしあなたとより深くかかわっていたとしたら、私だってなにかしてあげたいって思うんじゃないかな。深いかかわりの人にはもちろんいろんなことをしてもらうともと彼はこたえ、それからいささかばつが悪そうに目をそらす。彼はかつて私の友だちとほとんど一緒に住んでいた。彼は今、その時分に彼女が私に話したことがらについて想像したのだろう。彼女の話から推測するに彼は何かをしてもらうことがあまりに下手だったし、そのことに彼女はいつもうっすらと腹を立てていた。
 だってしてもらうほうには選択権がないじゃないかと彼は言う。それが不可欠になってしまったらどうしよう、人質を取られてるみたいだ。そんなふうに状況を変えられて相手に影響力を持たれるなんておそろしいことじゃないか。相手に自分を書きかえる権利を与えるだなんて。
 相手を書きかえたいという欲望、それは愛情のある種の側面なのです。したり顔して私は言う。激しい愛にも広義の愛にもそれは存在すると私は思う。たとえば自分にぜんぜん影響されない友だちってなんかこう、いやだよ。
 それをあげない代わりに楽をさせてやるのにと言って彼はひっそりとほほえむ。みんな、楽なのが好きなんだろうに、僕はいろんなことができるし、労を惜しまないし、だから、楽をさせてやるのに。私はかなしくなって、それからそれでもいいやと感じるぶんだけ、私は彼を愛する者ではないのだと思った。
 私はそれからわずかな反論をこころみた。影響から逃れることはあなたにだってできない。気持ち悪いことに、私たちはこんなふうに向かいあって食事をするだけで、互いを少しずつ摂取している。私たちにミラーニューロンのあるかぎり。僕らに間身体性のあるかぎり、と彼はこたえる。私は短く空気を吐いて軽蔑の意を伝える。いやだね、文系は。それから彼の背後に視線のすべてとひとさし指を向けて、メルロ=ポンティが来るぞ、石を投げろ!と言った。彼は食器のすべてから両手の指を離してひどく笑った。それから軽く右手を立て、場の空気をジョーク用から会話用に戻した。コントローラブル、と私は思う。彼の周囲の空気はいつでも。