傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

忌避される愛あるいは憎しみ

 扉が勝手にひらいて彼は凍りついた。反射的に目を逸らし不審にならない程度に彼女の目から離れたところ、彼女の右の耳朶のあたりに視線を戻し、儀礼的にほほえむ。彼女はドアノブを持ったままどうぞと言う。オフィスの入り口の扉だから反対側に誰かがいて同じタイミングで開けることは珍しくない。たいていの人がたいていの相手にドアを押さえておいてあげる。どうぞ。ああどうも、ありがとうございます。
 彼はただそれだけのことを済ませるために、午後いっぱいの作業より多くの体力を使った。自席に戻ると特有の脱力感がおとずれた。それは彼の覚えているかぎり彼女と向きあったあとにだけ発動する感覚だった。無事に逃げてきたような感慨を、彼はおぼえた。皮膚感覚が鋭敏になり、サーキュレータの風が当たっている部分がどこからどこまでかまできちんと感じ取ることができた。足の裏の皮膚に触れている靴下の布地の糸のからみあっているようすとそこに含まれている水分について彼は感じることができた。
彼は片手で彼の顔を支えた。自席でできる姿勢としてはそれが限度だった。彼はほんとうはその場にへたりこみたかった。両手を自分にまわして右の手で左の、左の手で右の二の腕を強くつかんでいたかった。彼は寄る辺なかった。彼は自分を広大な世界に放りだされた取るに足りない小さいもののように感じた。彼は後頭部に痺れを感じた。そんな感覚にさえ彼はもう慣れていた。彼女が彼と同じフロアに異動してきて、もう三年にもなるからだ。いまや彼は彼女を上手に視界から逃し、不意に向かいあうことがあっても顔色を変えず、礼儀正しい同僚としてふるまうことができる(最初のうちは、もしかすると挙動不審だったかもしれないけれども)。彼らにたいした接点はない。彼らが面と向かって会話らしい会話を交わしたのは数回にすぎない。

 それって結局なんなの、すんごいネガティブな恋愛みたいなもの、それともなんらかのフォビアのあらわれとか。私が尋ねると結局、と彼は繰り返して小馬鹿にしたように笑った。そのことば便利だけどこの場合は意味がないよね、だってたとえばそのどっちかに決めたとしても不可解なところは残るわけだからね。効用としては話を終わらせるくらいしかない。終わらせたい?私は首を横に振り、続けようと言う。結局なんて安直なことばを使った私がばかだったよ、どうか許してほしい。彼は気持ちよさそうにうなずく。
 それでは不可解な部分についての話をしましょうと私は言う。たとえばそれはどのように恋のようではないかしら。彼は即答した。楽しくない。いや、俺だっていくらなんでも三十過ぎて恋愛は楽しいですねとばかり思っているわけじゃないけど、それにしたってひとつも楽しくない。アツコとは、冷徹に言うとお互いかなり飽きちゃってはいるけど、でも最初はすごく楽しかったし、今もわりと楽しい。あともしこれが恋愛ならアツコに罪悪感とか持ってしかるべきだと思うんだけどそういうのもない。彼はそのように説明する。アツコというのは彼が一緒に住んでいる恋人の名前だ。その名を口にするとき彼はリラックスしている。私は彼らの感情と関係性をてのひらに乗せて感じることができる。彼が彼女について話すときは決してそうではない。彼は彼女を指示する適切な語を持っていないように見える。
 じゃあまたしてもものすごく安直な質問をするけどさ、彼女に接触したい?つまり、物理的に。そう尋ねると彼はいかにもうんざりした顔で、死ぬほどしたいような気がちらりとしてそれからそれが殴りたいのと同じのような気がする、とこたえる。一センチでも遠くへ行きたいみたいな気もする。指一本触れたくないみたいな。おぞましいといってもいい。もうね、これについては何百回も考えたよ、わかってると思うけど。でも判断できない。ゼロではない。そこには強烈ななにかがある。でもそれがプラスかマイナスかわからない。わかるのは絶対値だけ。
 どうせ他人事だから私は彼をそそのかす。もう口説いちゃえば。そしたら好きかどうかわかるじゃん。その感情の正体がたとえば別の人物に対する憎しみや恐怖の転写だったとしても、ただ捨てちゃえばいいだけのことでしょ。彼はひどくあきれて、それがどんなに恐ろしいことか、想像つかないのかな、とつぶやく。
 私には想像がつかない。そんなふうに誰かに対してわけのわからない感情を抱きつづけなければならないくらいなら思い切ってなにかをする。せずにはいられないと思う。それが愛なら愛し、憎しみなら憎む。そうこたえると彼は力なくほほえみ、マキノにはわからない、と言う。