読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女のかわいい女の子

 この子こんな顔して仕事はえぐいんですよ。上司が言い上司の上司が笑い彼女もにっこりと笑う。どいつもこいつも顔に言及しないと私の仕事の話ができないみたいだと彼女は思う。顔で仕事をしているとでもいうみたいに。私の顔、眉の薄い目の丸い栗鼠めいた顔、剥がして家に置いて出ることができない、早く老けたらいいのに、でも女の顔だからきっとそれでは、充分ではない、上司やいっそ上司の上司みたいな、年とった男の顔につけ替えたい、そしたら私の仕事はきっとずっとうまくいく。でもそれはできない。だから彼女はかわいい女の子の顔を保持する。
 もう頑固でねえ、言うこと聞きやしない。お父さん苦労するねと上司の上司がこたえ彼らはほがらかに笑う。彼女も笑う。社交。上司は親なんかじゃない。上司は上司でしかない。私は私の働きに応じて報酬をもらっていて私はちゃんとしたプロだ。それなのに彼らは私の性別と容姿と年齢という付属物だけを根拠に保護の快楽を詐取してむさぼっている。彼女はそう思い彼らに火をつけることを想像する。彼らのよぶんな脂肪が燃えるところを想像する。彼女は彼女の上司が彼女の仕事を正当に評価していることに対して感謝している。上司を信頼しているといってもいい。でもそれと彼らの詐取とは関係がない。彼女はそれらを精確に弁別し感謝と憎しみを行使する。彼女の秤の示す分量のとおりに。
 彼女の隣に座る彼女のひとつ年嵩の男の英語の試験のスコアが口にされ彼女はいいなあと言う。無邪気に言う。男は善良に笑っている。帰国子女という人種はおおむね子どもの年齢で彼らの意思と無関係に異文化のもとに拉致され泣きながら新しい言語や行動様式を身につけた存在だと彼女は理解している。だからその成果をただの幸運の賜物のようにあつかえば彼らは少なからず傷つく。傷つけと彼女は思う。いいなあと彼女は軽々しく言い彼を見る。選良。いつだっていちばん広い道のセンターラインを歩くことが当然だと思っている。
 彼らは妨害されない。彼女に日々寄せられつづける瑣末で大量の妨害を彼らは想像したことすらおそらくはない。彼らは女ではない。彼らは子ども扱いされない。彼らは弱者ではない。彼らに寄せられる婚姻への期待は早く保護者を見つけろというプレッシャではなく早く誰かを保護してそのことによって社会的に完成された存在になれという祝福にすぎない。彼らの態度はつねに寛容だ。なぜなら彼らは持てる者だから。ほどこす側だから。
 彼はほほえむ。保護する側に立つことが当然だと思っている顔。彼女もほほえむ。保護されろ保護されろ早く保護されろなぜならおまえは不十分だ。そのような呪いに鍛えあげられた被保護者の顔を彼女は提示する。かわいい顔。彼はそれを見る。彼女を縛りあげている呪いにもっとも縁のないたぐいの人間。彼に火が放たれたところを、彼女は念入りに想像する。その肌の水分の蒸発のようすと蛋白質の焦げるにおいを想像する。彼女はもういちどほほえむ。
 美男美女がほほえみを交わすのは良いものだねえとマキノさんが言う。マキノさんは先輩で管理職ではなくしかしその補助のような役職を与えられているからこの会社にあってはなかば例外的な、女だ。結婚はしていないしもちろん子どももいない。だから所詮ただの例外で私のロールモデルではないと彼女は思う。私は完全になる。私はじきに管理職になるしおそらくその前に結婚して適切なタイミングで子どもを産み誰にも後ろ指をさされない完全な立場を手に入れる。私はどこも惨めでないし誰にも守られない。そう思う。マキノさんは電車の吊革を平気で握っていて彼女はなにもつかんでいない。あんな汚いものよく触れるなと彼女は思う。
 ヒライさんご機嫌だったねえとマキノさんは言う。さっきねえ解散の前にあなたのこと訊かれたよ、きっと好意を持っているんだねえ、そのうち飲み会しようよ。あらと彼女は言ってにっこりと笑う。マキノさんも笑う。あの男私に気があるのかと彼女は思いうっそりとした快感がこみあげるのを感じる。マキノさんは実に機嫌よくまあ任せておいてよと言う。愚かしいと彼女は思う。愚かしい、でも嫌いではない、可哀想で少し、可愛い。
 彼女は揺れる電車にあわせてバランスを微調整しながら、さっきまで隣に座っていた男について考える。あの男、プライドの高そうな、にっこり笑えば女はみんな自分のこと好きになると思っているような薄っぺらい男。ちょっとサービスしてやれば、私をうんと好きになるかな。そうだったらいいのにな。いいだけ振り回してぼろ雑巾みたいに捨てたいな。