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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼のやさしい男の子

 見合いみたいだと彼は思う。見合いになんか行ったことはないし、目の前にいるのは親くらいの年齢の男だけれど。けれどもこの男は僕の釣書を見ているし、交わされるのは表面的な、そのくせえらく計算高い、だから総じて効率的な、そういう会話だ。
 彼は彼の上司の上司と食事をしていた。上司の上司はいくつかの部署を統轄しており、管理職候補を連れて来させて顔あわせをしていることを、その場にいる全員が理解していた。別の部署の上司的な人間とその部下的な人間がひと組、単独で来ている部下的な人間が二名。場つなぎ要員か、上司層より若く彼らよりは年嵩の、ときどき部署をまたがる宴会の幹事をやっている女の社員がひとり。彼の隣には彼のひとつ後輩の華奢な女が座っている。
 この子はこんな顔して仕事はけっこうえぐいんですよと後輩の上司が言い彼女はころころと笑う。彼の上司が彼を売りこむように彼の出た米国の大学の名を口にする。TOEICのスコアは900点ですと、どうしてか得意げに言う。いいなと隣の女が言う。彼に顔を向けて言う。自分の愛らしさを知っている人間に特有のにおいが極限まで消臭されて、でも完全になくなってはいない。いつかの飲み会で言っていた。私しんどいと親に電話かけちゃうんです。おかあさーんって。親しみやすいキャラクタを演出して彼女は笑っていた。いかにも庇護欲をそそる、周到に手入れされた顔。骨の細い小さなからだ。彼はほとんど常に保持している彼の人あたりのよい顔を強化する。それは飢えを知らない顔だ。幸福に育って満ち足りて暮らしている顔。それは彼の祈りによって作りだされた。
 彼は七つのとき、家族に連れられてアメリカに渡った。両親は彼を現地校に入れた。家庭教師もつけた。家の中ではほとんど英語で話した。両親はそういう種類の人間なのだ。努力し高い能力を手に入れ、子どもにも同じ行為を求める。ほどなく彼は学校の中庭の壁のある部分を気に入った。そのしみは特別なかたちをしているように感じられた。周囲の子どもたちはキリスト教徒で、彼はそうではなかった。だから彼はその壁のしみを彼の神さまと決めた。
 日本に帰してくださいと、彼は祈ることができなかった。だって彼はある意味でまだ日本にいたからだ。彼はまだ、自分は一度にひとつの場所にしか存在できないという事実を、よく理解していなかった。彼は壁のしみが神さまである彼の世界を、唯一の現実と思えなかった。だから彼は祈った。日本にいる僕が幸せに暮らしていますように。彼は勉強し、三日に一度は吐いて、また勉強した。中庭の壁の神さまは彼の祈りをちゃんと聞き届けた。日本にいる彼は生まれた町の小学校に歩いて通い、思ったことをそのまま伝えることができ、夕刻にはテレビのアニメを見た。両親はいつも日本語を話して、彼を褒めてくれて、おなかの具合が悪いから学校はお休みだねと言った。彼は日本にいる彼の幸福のために大切なものを神さまにお供えした。小さくなった靴下、瓶の王冠、チョコレート・バー、縞模様の小石。
 彼はやがてぴったりとその土地に適応して彼の神さまを忘れた。思い出したのは大学生のとき、所属していたフットボールチームの先輩のせりふがきっかけだった。あのさ、積極性と暴力衝動ってぜんぜんちがうんだよ、わかるか。彼はよく怪我をしていた。スポーツのためだけでなく、交通事故にも何度か遭っていた。いずれも相手に過失があったけれども、その頻度はほとんど異常だと彼も思わないではなかった。お前の神さまがどんなだか知らないけど、と先輩は言った。祈ったほうがいいよ、死なないように。
 彼は彼の神さまを思い出した。日本にいる彼について思い出した。日本にいる彼は穏やかで少し地味で、誰にでも親切で、ひとりの女の子と長くつきあっていた。それは記録を見るようにたしかなことだった。次の長い休暇に、彼は日本の祖母の家をたずねた。成田には日本で暮らしていた彼が、彼を待っていた。彼はにっこりと笑って、彼に手を差し出した。彼はそれをにぎった。
 彼は日本に職を得た。彼は怪我をしなくなり、誰に対しても親切になった。いいなあともう一度その女が言う。そんなときにだけ彼は日本で暮らしていた彼の手を離しそうになってしまう。この女俺に気があるのかなと彼は思う。そうだったらいいのにな。いいだけ振り回してぼろ雑巾みたいに捨てたいな。彼は感じよくにっこりと笑う。彼女もにっこりと笑う。自分が守られる存在だと確信している顔。彼は途方もなくそれを憎み、そしてそれと同じ種類の顔を、創作物として保持している。神さまにお供えをしなければと彼は思う。でも、何を?