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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

そしたらそれははじめからない

 山口さんとかどう。彼は不意に彼のありふれた名を呼ばれてぎくりと身をかためる。彼らの会社には彼のほかにもうひとり山口がいる。山口さん。視線を感じて彼は不自然にならない速度をつくりそれを追う。それは二秒と少し前に別の軌道に乗って彼の視界を離れている。
 優秀ですねと彼女は言う。とてもやりやすい。年下のくせに学歴を笠にきて上から目線でものを言う。彼の視界の端の彼女はひとさし指でなく薬指を遣ってとんとんと二度彼女のこめかみを打つ。彼はその指を憎む。そこに彼の神経は通っていない。だから憎む。ぞんざいに整えた爪のまわりに宿命的なささくれがあることを彼は知っている。彼女の隣の女の指のほうがましだと彼は思う。誘ったら僕の部屋に入るかな。きっと入るだろう。
 でも入れたくない。顔が好きじゃないから。おっぱいに見えるあれだってきっと詰め物だ。彼は隣の男とそこにいない別の女の話をしながらそのように判断する。
 そういうんじゃなくて。指だけがきれいな女がしつこく問う。男性として。ダンセイとして、と頭の中で繰り返して彼は嘲笑する。彼の目の前の男が笑う。自分の冗談に笑ったとでも、きっと思っているんだろう。今は業務時間外で、だから彼はその男の名を思い出すことができない。昼間はぜんぶ、もちろん覚えている。
 彼女は高い声をかろうじて笑いのかたちに聞こえる速度で破裂させる。なあにそれ、やだなあマキノさん、山口さんバツイチじゃないですか。だからなにとマキノがごく真剣な声で返す。そういうのが大事なんですか。いいえと彼女はこたえる。あんまりそういうこと考えないものですから。めんどくさいからわかりやすいこと言っただけなの。それから自分の声が届いていないことを確かめるように彼を見る。
 彼は彼女を見据えて感じのいい笑顔を浮かべる。めんどくさいから言っただけなの。そのせりふを幾度でも反芻しながら彼女を見る。前の妻に吐き気がすると言い捨てられた汎用的な笑い。そうしてひらひらとてのひらを振り、冷たいなあと言う。僕いっしょうけんめい仕事したんだけどな。
 彼らはこの数カ月の業務上のパートナで、彼は彼女を高く買っていた。彼女もそのようだった。彼女は何度か控えめな表現で彼を褒めた。彼はさらにわかりにくい言い回しで彼女を認めた。でもそれがなんになっただろう。彼女はもっとずっとわかりやすい賞賛を浴びている。つまり昇給だとか、そういうものを。彼にもそれはあった。でも会社から同じものを得ているという事実など彼にはただ憎々しいだけのものだった。
 彼女は彼にとってまだかろうじて若い女であるような、つまり二十代の終盤の、ほとんどベテランといっていい社員だった。良いお仕事でしたと彼女は言った。心から言っているようだった。彼はだからひどく残忍な気分になった。僕だめですかあと尋ねた。つまり、男性として。彼女はけらけらと人工的なタイミングで笑い、そこに何の動揺も見られないことで彼はさらに冷徹な気分になる。
 お互い不名誉なことですねと彼は言う。そうですねと彼女はこたえる。良くない冗談のネタにしかならない。醜いですね。ねえ。僕ら一生懸命に仕事をしたのに。彼らはそのようなことばを交わして、笑う。それから彼は言う。やりやすかったですよ、とても。そんなに警戒しないでくださいよ、そういう見た目でもないでしょう。
 傷つけた。そう思って彼はひっそりと笑う。うまくいった。いいタイミングだった。彼はそれらを反芻しそれから奥歯の芯に痛みを感じる。しばらく虫歯の点検をしていない。彼の家の向かいには大きな金木犀の樹が立っていて春になるとアスファルトに薄い橙色の花を落とす。窓をひらくと空気が甘く彼はちいさなめまいを起こす。ああいうのはよくない。骨を溶かす。あれから進行して穴があいたんだ。そう思う。彼の鈍い痛覚を執拗に刺激する神経の先の腐敗。
 彼女はマキノに向き直りぱくぱくと口を動かす。そのせりふはもう彼に届かない。それは彼のためのことばではない。彼女の表情を彼は反芻する。ほのめかしが通じないからぜんぶを嘘にしたかった。彼は彼女を嫌いだった。はじめから嫌いだった。歯並びの悪い、いけすかない女。今回の業績はぜんぶ僕がもらう。そのための準備は済んでいる。あとで気づいて歯ぎしりしてもっと醜くなればいい。その傷が浅くても、もっと深いのがよくっても、ほかに選択肢はなかった。彼はそう思い、それから、それを忘れる。誰にも話してはだめと彼の子どものころの友だちは言った。ませた女の子だった。誰にも話さないの、ことばで思わないの、そしたら、それは、どこにもないから。