傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の悪い趣味

 彼女は彼を甘やかすのがとてもうまい。彼女は彼の安い欲望の諸相を熟知している。持ち上げて。連絡して。連絡しすぎないで。呼んだら来て。顔色を読んで。きれいにして。安心させて。優越させて。頼るそぶりをして。好ましい内容で。
 彼女はそれを軽々とクリアする。彼女の能力は高い。その程度のことは彼女の娯楽の範疇だ。甘い真綿を敷くように彼女は彼をいい気持ちにする。彼女の有毒であることは私の目にはあきらかだけれど、彼女はもちろんそれを彼に見せない。キャンディみたいなパッケージ、両端を引けばころりと落ちる。そんななりをしている。
 彼が彼女を愛玩しはじめて、そう見えて実のところ彼女が彼を愛玩しはじめて、もうすぐ一年になる。夏になると彼女は、ねえ悪巧みがしたいなと言う。彼女は悪い企みごとがとても巧い。夏が来たからねと私はこたえる。彼女のそれは季節性の病だ。悪巧みのために彼女が彼を引っかけたのが去年の夏で、それはすでに消費期限を過ぎているはずだった。なぜなら彼女は彼女を傷つけた別の誰かのために彼を利用したのであり、その誰かはとうに彼女の関心の外に押し出されていたからだ。
 そんなわけで彼がもはや用なしになって久しい。私は彼を嫌いだったのでいつになったら彼女は彼をごみのように捨てるのだろうと思っていた。彼は子ども部屋で老いたたぐいの自己愛を保持するために他者のなにかを詐取していた。彼の価値観のなかに彼が手ずから作り上げたものはひとつもなかった。きれいよねと彼女が言う彼の顔立ちは私の目には書き割りだった。彼ね汗をかくと不機嫌になるのと彼女は言った。私は嫌な臭いをかがされた顔になったと思う。夏のさなかにどこかへ急ぎ汗をかくことを蔑視する人間は決して私の友だちではない。身体はこのうえなく尊い主体のはじまるところなのに彼らはそれを誰かが評価するディスプレイの一部のようにあつかう。
 彼の職業や余暇におこなう行為は切り売りの価値観で上位に見られるためのエクスキューズにすぎなかった。彼のエクスキューズを上回る数値を(それは擬似的な数値化に向いたピラミッド構造をそなえていた)纏う他者を彼はどこからか持ってきた別のピラミッドで貶め、だから彼の中で彼はいつも優位なのだった。彼はいつも劣位のなにかを必要としていた。なければ捏造した。そうしてもっとも卑しいのはそれが無意識の裡におこなわれていることだった。
 彼女が彼の話をした何度めかのとき、あの種の人間に人を愛する能力はないよと私は忠告した。そいつにはあなたを愛する能力なんかないんだよ。昼下がりのテラスの木漏れ日を浴びて彼女は愉快そうに笑った。愛。愛ですって。すてきな冗談。背中に薄い氷片が落ちた感触がした。彼女の愛らしい顔の上には葉の影がゆらめいていた。それは異形の刺青を成していた。
 夏が来るよと私は言った。なにか企んでる。彼女は去年と同じ顔で笑った。この人の上にも一年は降りてきて、だからそれだけ死に近づいているはずなのに、少しもそうは見えなかった。先月から仕込んでる、と彼女はこたえた。彼に冷たくしているの。
 私は悪い笑いを浮かべる。サヤカほんとに彼を嫌いねと彼女は言う。それで彼どうしたと私は尋ねる。まず高圧的に出た、と彼女は言う。ふわふわに甘やかした成果が出て半年前くらいから彼とっても態度悪くなったの。不機嫌を隠そうともしない。人に会うとき不機嫌なようすを隠さないなんて小学生にも劣る。私も鬼じゃないから何度か忠告はした。でも聞かない。甘やかした甲斐があったねと私は言う。よく育ったものよと彼女はこたえる。
 そうして彼女は彼を持ち上げなくなった。連絡しなくなった。呼んでも行かなくなった。彼女は彼を不安にさせた。まぼろしを失って彼の優越はもろくも崩れ落ちた。けれども彼はあまりに彼女に飼いならされていたので、彼女をうまく貶めることができなかった。彼は必死で彼女をつなぎ止めようとした。
 そのぶざまな言動を聞いて笑っていると悪趣味ねえと彼女は言い、あなたがね、と私はこたえる。そんなことない、ほんとの夏が来たら、もとに戻ってあげる。彼女がそう言うので私は少し驚く。どうして。もう用済みじゃない。そんなことないと彼女は繰りかえす。まだ味わえる。離れてしまうかもしれないものに人はより強く支配されるの。だから私は繰りかえすの。女を取り替えのきくものにしておくことが彼を支えるプライドの一部なんだからそれを崩すのはすごくおもしろいでしょう。彼は私を愛してしまえばいいの。その能力もないくせに、私を愛してしまえばいいのよ。

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