傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

悪いお菓子

 入社時期が近い十人ばかりと飲んでいて最近どうよと訊かれたのでふつうと彼はこたえる。そっちはと返すとがんばってるようとマキノはこたえてビールをごくごく飲んでいる。両手でジョッキを持って慎重に飲んだりしない。二の腕が太いと彼は思う。二の腕が太い、色が白い、鎖骨が太い、笑うと小じわが多い。わかっていたら笑わないはずなのに平気で笑うからきっとわかっていないんだろう。
 近況を訊かれて当然のように仕事の話って荒んでるんじゃないと別のひとりが言い、そうかあとマキノが感心する。うん、ご家庭とか彼氏彼女とかそういう話したほうがいいよねえ。こいつら俺の彼女の話なんか聞きたくもないくせになんでそういう質問するかなと彼は思う。それからこたえる。飲み屋の姉ちゃんとつきあってる。すてきとマキノは言う。バーテンダーさんとかかしら。彼は呆れてキャバ嬢キャバ嬢とこたえる。いいねえ、つけ睫毛ついてる?髪の毛盛ってる?ぜんぶの靴に細いヒールがついてる?彼はマキノのせりふがあまりに愚かしいのでかえって愉快になって、恋人のつけ睫毛を思いだす。付属物を落とすと彼女の目は小さくて愛らしい。二の腕は彼のてのひらにおさまり鎖骨の下には細い肋骨がうっすらと浮いている。勤めている店はそんなに高くない。彼が行ったのは二度きりだけれども。
 いくつと問われて二十歳と彼はこたえる。ハタチかーすごいなーハタチとかもはやフィクションだよとマキノは唸り、若いねえと言う。おまえらがばばあなんだと彼は思う。でも言わない。彼女たちが嫌いなのではない。端的にそう思うだけだ。
 どんな話すんのハタチと。別の誰かに訊かれてふつう、と彼はこたえる。どっちか喋ってどっちか聞いてる。そりゃふつうだと誰かが言い彼は説明を飲みこむ。疑問とか反論とか否定とかが、ないんだね、とマキノが言う。そう、と彼はこたえる。マキノは続ける。大きなかたまりの受け渡しがある、こまかく手を動かしてキャッチボールするんじゃなくって。そしてそれを、潰さない、どこも。ぜんぶそのまま、持ってる。そのための握力の量を知っている。
 彼は少し驚いて、そう、とこたえる。それは甘いねとマキノは言う。そんなのってちょっとやめられないよ、ちょう安心じゃん。安心、と彼は思う。安心安心と彼の恋人は言う。なにかの隙間に差し挟むように言う。すると彼はぼんやりする。彼は何も考えない。そういうのは甘いというのかもしれないと彼は思う。お菓子。お菓子ばかり食べていてはだめと小さいころに叱られたことを彼は思い出す。でも大人になってからのほうがお菓子はよく食べている。残業のあとの食事までの間に合わせとしての、雑な小麦粉と安い油と大量の白砂糖。誰も叱らない。
 誰の顔を見ても落ち着かなくてなんだか目が泳ぐ。誰かが誰かを叱っている。飲み過ぎ、依存症になっちゃう。そんな大量に飲んでないって。いや絶対量というより増えてるのが不吉、毎日飲むと慣れて量が増えるよね、それで依存を形成する。不吉。
 俺はぜんぜんセーフだと彼は思う。彼女は家では飲まないから彼女がいれば彼は飲まない。それからハタチか若い若いと繰りかえす誰かに向かって、俺らが年とってるだけじゃんと言う。するとマキノが振りかえって目をむき、無言でまた元の角度に首を戻した。なにか変なところがあったかなと彼は思う。
 何人かが話している。依存性って大げさだなあ、そしたらうちの嫁は確実にアル中だね。ねえアルコールって依存性すごい高いらしいじゃん。煙草のほうが高いんじゃないの。いやたぶんアルコールのほうが全然。それがね意外と砂糖もやばいらしい。砂糖?そう砂糖。甘いもの。
 彼はどうしてかぎくりとして耳をそばだてる。砂糖中毒。甘いものなしでいられなくなるの。うわ私ぜったいそれだわ。なんでそんなもんにまで依存症になるわけ、お酒とか飲まないで真面目に暮らしてたのにチョコレートもだめなんて絶望。マキノがひっそりと向き直るので彼はさっきの顔なんだよと尋ねる。彼女が若いんじゃなくて自分たちが年くってるって、とマキノは確認する。ほかにもあなたの発言いくつかそうだったんだけど、基準が、彼女なんだよ。自分じゃなくて。あと女という女を彼女との差分でしか認識できない。そんなのって最高に病気だよ、たまらなくすてきだしひどくおぞましいよ、ちがう?
 彼は三秒かけてそのせりふを理解する。お菓子、とつぶやく。間に合わせとしての、雑な小麦粉と安い油と大量に入った白砂糖の。依存症、たぶん。どうして。いつから。そんなこと、どうでもいい、今すぐ甘いお菓子を、ここに。