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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたが犬なら憎まない

 頭の中で架空の指を折ると今日で四度目だった。三度目からはポーチがついていると彼は思う。ポーチというのは腰巾着が転じて陰で一部の社員が使う呼び名で、縮めてポチともいう。腰巾着はなにについているかといえば彼らの会社の専務についている。彼はもうひとりの取締役の下でずっと働いていて、そもそもその人にあこがれて入社したので、いま目の前にいる専務のことはわりあいにどうでもよかった。
 こいつってこんなに陰惨な性格だったんだなと彼は思う。彼らの会社の歴史は浅い。中心人物はみなせいぜい四十かそこいらで、目の前の専務だって、そのくらいのはずだった。完全な若者とはいえないけれどまだじゅうぶんに無理もきく彼の、いくぶん年の離れた兄であってもおかしくない程度の年齢。
 専務は回りくどく長い話を常として、言質を取るのが得意だった。激しい口調や汚い罵り文句を使うことは決してなかった。その態度はほとんど慇懃であるとさえいえた。ただその中には侮蔑がうっそりと寝そべり、客観的な事実を語る口調に上手に擬態した声でそうでない解釈を口にするのだった。そしてそれは一時間、時によっては二時間続いた。相手を個室に呼び出しほとんど閉じこめるようにしてそれはおこなわれた。彼はそうした悪意にいたく鈍い性質だったので、二度目にしてようやく気づいた。そうか、これは、いじめみたいなものなんだな。
 彼は彼のヒーローのような上長と一緒に莫大な量の仕事をこなして十年を過ごした。人が増え、社屋は二回の移転を経験した。彼のヒーローはある日彼に言った。あのねえ俺もうあんまり今までみたくできないんだ。子どもがねえ、うん、ちょっと、手がかかる子でね、だからね。あんまり目が届かなくなると思うけど他の人と喧嘩しちゃだめだよ、フチガミさんやカスガさんと、うまくやってください。どうかお願いします。
 それを聞いてから長い長いよくわからない話のための呼び出しに応じている今まで一年と二ヶ月の時間が経過していた。彼は注意深く返答し時計を見た。ポーチが顔色を変えたのがわかった。なんでも陰惨な専務の親戚でえらい恵まれない境遇で大きくなって救われるように入社して仕事を覚えたのだそうだ。だからってここまで忠犬じゃなくてもいいだろうと彼は思った。忠犬はその主人が言えないあからさまなせりふを吐くことだってできる。彼はポケットの中に手をつっこんで作動中のICレコーダを取りだしたい衝動に駆られた。彼らの口元に寄せて、どうぞと言ってみたかった。でもしなかった。どうでもよかった。ふたりともどうでもよかった。ご主人さまの後ろを歩いているだけのポチはいくらかよぶんにどうでもよかった。
 彼はよく選んだせりふを返しながらポチの顔を眺める。少し昔の役者めいた、整った顔をしている。彼の母親やその友だちがすごく気に入りそうな、今の若い女の子はその半分くらい気に入りそうな。彼は自分の猫背を意識してもう少し湾曲させ長身のポチを見る。三たび、四たび、あるいはそれ以上かもしれないが、ともかくまたそのろくでもない口をひらいたポチの主人を見る。それから焦点の少し右に位置するポチの不自然な動作に気づいた。ポチは前髪を目の上におろすようにしてそれを直していた。彼は認識した。泣いている。認識と前後して彼は気が遠くなるほどその男を憎んだ。
 なんていうのと私は訊いた。語りを止めた彼は首をかしげた。名前、と私は言った。腰巾着の人の。彼はかすれた声でこたえた。マジマさん。マジマさんが、と私は言った。マジマさんが、あなたを虐めるのが泣くほど辛い人だから、憎いの。
 彼はうつむいてコーヒーショップのロゴの入った量産品のマグカップをもてあそび、そうだよ、とつぶやいた。泣くほどいやならやめたらいいじゃないか。どす黒い顔して、シールみたいな笑顔して、虐めてる当人の前で泣くんだったら、やめろよ。そうだろ。マジマさんは有能だ、そんなのみんな知ってる、あの人がいなきゃうちの会社はだめなんだ、価値がある人なんだ、なのに泣くほど卑しい真似をする、何度も何度もしてる、あんな卑しいことってない、あるんだったら教えてくれよ。
 そうだねと私はこたえる。マジマさんはよくないね。そんなことを続けていたらじきに死んでしまうよ。人間はそういう矛盾に耐えられるものではないよ。人間ね、と言って彼は薄く笑う。人間だよと私は言い聞かせる。マジマさんがあなたを虐めるのがいやで泣くような人間だと認識して、そんな認識をあなたはいやで、だからそんなにマジマさんが憎いんでしょう?