傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

助けあって生きていこうよ

 つきあいはいいほうだと彼は思う。なぜかといえばつきあいがいいほうが結局あんまりめんどくさくないからだ。送別会の主賓の片方が産休だと彼は知らなかった。辞めるにせよ産休育休のあとのほうが得なのかもしれないと思った。彼は家庭を持ってもおかしくはない年齢になっていたけれど主観的にはまだ完全に他人事だった。それはぼんやりと遠くに霞んでいるくせに確実に存在し、近づくのが億劫なのに周囲にはそこへ向かう道しか見当たらないのだった。
 里佳子さん帰ってきてねと言って戻ってきた先輩に何度目すかと訊くと三回目と彼女はこたえた。だいじなことだから三回言いました。里佳子さん仕事できるし私すき。よく好きとか言う人だなと彼は思う。先輩は飲んでも飲まなくても言うことは変わらないけれども飲むとテンションが上がるのでやや鬱陶しい。おばさんのでかい声は生理的になんかこうちょっときつい、と彼は思う。悪い人じゃないんだけど。お菓子とかくれるし。
 恋人から着信があったので少し話して席に戻るとひとりが潰れていた。いい年してと思いながら洗面所に連れていく。ほとんど歩けないくせにごめんねごめんねちょっと吐いてくるねなどと言うのでそんなに苦しくはないようだ。店員に氷なしの水とおしぼりをもらって手洗いの入り口で待機する。
 先輩が潰れた人の上着と鞄を持ってくる。傘はと訊くと慌てて持ってきた。彼が酔っぱらいに肩を貸して出ると先輩はジョッキを急角度で空にしているところだった。酔っぱらいに上着を着せかけて歩く。先輩はそのあいだひっきりなしにしゃべっている。腕は同時に出さないと着られないですよ、おうち中野ですよね、あ、タクシーいますよ、車線反対かな、まあいいか。
 彼は横断歩道の途中でやや強引に車を止める。ふたりをタクシーに押しこんだあたりで信号が変わる。雨はほとんど止んでいた。店に戻るために歩きながら、先輩やけに親切だったな、狙ってんのかな、と思う。自分だって恋愛はするのに他人のそれは少し気持ち悪いように思えた。薄汚い男に媚びる薄汚い女。そう感じるのは彼らが落ち着くべき年長者で、でもそうじゃないように見えるからだろうか、と思う。もっと、ちゃんとして、立派なそぶりで、指導とかしてほしいのかもしれない、と思う。
 槙野おつかれと声が聞こえて隣のテーブルを見るとタクシーに乗った先輩と親しい別の先輩が電話をかけているのだった。手招きするから席を移った。テーブルに置かれてオープンで音声を出しているスマートフォンを見ると起動しているのは電話ではなく通話アプリだった。搬出完了と電話の向こうで先輩が言った。ご苦労、とこちら側のひとりが言った。まじでご苦労。とくに一次会。先輩の声が言う。まったくだよお、なんであんな席に置き去りにするかなあ。「搬出」の話じゃない、と彼は思った。うんごめんなと返されて先輩は声に甘えを混入させる。あのオヤジなんて言ったと思う、女のわりに論理的、だってさ。おまえに論理の判定なんかできねーよ、なぜならおまえはばかだからだ、ばーかばーか。
 電話をかこんだ三人が笑う。仲いいんだなと彼は思う。自分より若い女がひとり、年上の男がふたり。こういうのが将来派閥になるんだろうと思う。利害より好き嫌いの問題だったりするんだよな。というか好き嫌いが最大の利害なんだろう。


 私の住処は職場から近いので飲み会の会場からもすぐに帰れる。片桐さん轢かれなかったと訊くと電話の向こうのざわめきの中から彼の声が聞こえた。生きてます。助かりました、どうもありがとう、と私は言う。湯浅さん最近いろいろあって、それで飲み過ぎちゃったんだと思う、許してあげてください。俺は別に許すようなことされてないんで、と彼は言う。私は尋ねる。片桐さんはえらいね、とても親切です、でもいつも親切で大丈夫ですか、気を遣ってばかりいたら飲み会たのしくないんじゃないですか。
 彼は少し沈黙してから、あんま考えたことなかったです、と言う。親切っぽいのは気遣いじゃなくて、なんとなくっていうか、素です。私は笑ってそうですかとこたえる。いやじゃなかったらときどき愚痴とかこぼすといいですよ、そこにいる三人は頼りになりますよ、私たち助けあって生きているの。そう言うと三人が笑う声が聞こえ、誰かが説明した。前うちの会社になんていうか不安定で思春期の女の子みたいに全部もってこうとする人がいてさ、そのときの槙野のせりふね。「少しあげるよ。全部はだめだよ。助けあって生きていこうよ」っていうの。私はまじめに続けた。よかったら片桐さんもご一緒しましょう。おやすみなさい。