読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だいなし病のためのセーブ・ポイント

 携帯電話の文字列を見て、では会いましょうと私は書き送る。私はもうすぐ今日の仕事が終わるので、私と似たところのある若い後輩とちょっと飲もうと思います、いかがですか。少しの沈黙のあと思慮深い返信が返ってくる。いいですね。私は彼女のいる(そして私の出た)大学の最寄りの駅からすぐの、キャンパスとは逆の側にあるバーの名前を挙げた。彼女はその古く細長いビルディングを知っていた。
 私は彼女を連れてカウンタから隔離されたように三つだけ置いてあるテーブルにおさまる。あたたかくて香りのいいお酒をふたつ作ってもらう。私たちは両手でそれを包んで飲む。カウンタに並ぶ人々の背中が頼り甲斐のある隔壁に見える。私たちはときどきそういうものを必要とするように思う。隔てられていること、薄暗いこと、あたたかいこと、両手の中になにかがあること、そこからいい匂いがすること。
 ぜんぜん平気だと思ってたんですよと彼女は言う。卒論を乗り切ったから。卒論提出ってきっちり締切ありますよね、だから私、絶対締切前に具合悪くなると思って、早めのスケジュール組んで、友だちと彼氏に頼んで、全工程チェックしてもらって原稿とかのデータを預かってもらいました、彼氏はそれをセーブって言いました、昔のゲームの。死んで復活するとセーブしたところからはじまるんだって。そんなの変ですよね、なんだか可笑しい。
 彼女はことばを切って少し笑う。私も笑う。お友だちと彼氏さんはあなたの事情をわかっているの。話しましたと彼女はこたえた。ずいぶん変な顔されたけど、でも、最後まで聞いて、理解してくれました。それで私のセーブ・ポイントを作ってくれました。よかったねと私は言う。心から言う。そういう人たちはとても貴重だよ、なかなかそんなふうにいかない。なにしろすごく奇妙な話だから。
 私と彼女はひとまわり年齢が違って、同じゼミの出身で、同じある種の心的傾向を持っていた。それを発見したのは私たちの先生だった。彼はそれを「だいなし病」と名づけた。一年と少し前の話だ。彼は言った。
 なにかに向かって努力する、そうしてそれに挫折する、するとあなたがたの心は平和だ。でも目標を達成しそうになったら、心の中の装置が起動する。達成してはならない、成長してはならない、優越してはならない、認められてはならない。そういう呪い。だからあなたがたは失敗する。能力が足りなかったから、予想外のことが起きたから、そんなふうに見える、でもそれは、嘘だ、それを起こしているのは、あなたがた自身だ。それから彼はちょっと笑って、頭で理解してるだけだけどね、と言った。だいなし病はなんといっても女の子の病気だ。まず否定するものが外部にあって、それを内面化してしまう。そういう現象は女の子により多く起きる。
 だいなし病の私たちは、それでも人生をだいなしにしたくなかった。彼女は高揚した顔をふと曇らせた。でも、卒論がうまくいって、次は就職じゃないですか、就職は見張っててもらうわけにいかないです。だから先輩と会いたかった。私はそのことについて話して、冷静にそれを取り扱う必要がある、そうですよね?
 そうだねと私はこたえる。私は彼女の先輩で、彼女の年齢でそれに対抗することを決めたから、現在の彼女よりずっとうまくそれに対処できるようになっていた。十二年も努力していればなんだって上達する。それでも私は去年、仕事の成果をひとつ、だめにした。不注意による事故だと周囲は考え、私に責任を取らせた。私は安定した。私の中にはいまだにそのような装置がある。それはまだ生きているし、おそらく死ぬことはない。
 そうして私は話す。私、やっちゃったよ、去年。仕事の成果をひとつどぶに捨てるみたいなこと。それで、それ以外についてはかなりがんばってて偶然も重なったせいで、このあいだ昇進しちゃった。しばらくしんどかった。彼女は目をぴかぴかさせて、それすごくしんどいですねと言った。就職ほどじゃない、と私はこたえた。私たちの今日の目的はこれだ。わかりにくいことについて簡単にことばが通じる相手と話すこと。自分たちの奇妙な苦痛と努力は誰かと共有しうるものだと確認すること。
 今日はいい話を聞いたと私は言った。セーブ・ポイントはとても重要だってこと。もちろん誰かにデータを預けておけば済むことばかりじゃない。でもそれなりのやり方を開発してセーブ・ポイントを作るのは、きっとすごくいいことだね。だいなし病が諦める。だいなしにしても近い過去からやり直されてしまうから。彼女は可笑しそうに繰りかえす。だいなし病が諦める。