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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

できませんと彼は言う

 彼は大勢が参加しすぎてかえって数人としか話せない新年会の会場の、ずいぶんと隅のほうにいた。私はその向かいに座り、潰れる直前って嘘ですよねと訊く。ほんとうですよと彼はこたえる。週に四日は八時間眠って土日もどちらかは休んでます、でもそんなのとは関係なく、僕は、トマトみたいに潰れる寸前ですよ。
 近隣の部署が外注に出した仕事が遅延に遅延を重ね、それでもその部署の責任者は問題を解決することができず、私と彼のいる部署のリーダが助けに行ったのだった。ちょっと火消ししてくるとリーダは言った。うちはサブが優秀だから二ヶ月くらい留守がちにしてもだいじょうぶだよね。
 サブリーダ、は彼なのだった。彼はサブリーダ昇格の前から担当していたグループ管理とは別の役職を、そのまま兼任していた。できるよねとリーダは言った。どうにか、と彼はこたえた(のだそうだ)。よゆうよゆう、とリーダは言い、彼は実際にそれらをうまくこなした。こなしているように見えた。
 そうしておととい、彼に連れられて会議室に行ったら、留守がち中のリーダがいるのだった。やあマキノさん。げんき。元気ですと私はこたえた。あのねえじゃあサブリーダが兼任してるあれ、任せていいですか。私は二秒かけて内面をととのえた。元気ですが、自分にできるか検討する時間を少しいただけないでしょうか。
 リーダはほらあ、と彼に言い、また私に向き直った。時間はないんだマキノさん、うちのサブリーダが潰れそうだって言うからさあ、マキノさんが疲れちゃうほうがぜんぜんマシっていうか、うん、だいじょうぶ、きっとできます。できなかったら降ろすからだいじょうぶ。
 ほんとうに降ろしていただけますかと私は訊いた。降ろしましょうとリーダは断言した。それでは挑戦します、よろしくお願いいたします、と私は言った。リーダはうれしそうに笑って、お手当てがつきますよう、と言った。私も笑った。彼も笑って、ちょっとですけどね、と言った。
 彼は指先を動かす。ペンがあったら彼はペンを回す。でも今それはない。だから指を動かしてから彼は言う。潰れるというのは過労で身体がいかれるというだけの意味ではありません。僕の身体はまだ追いつめられていません。でも兼任の段階でちょっと危惧していました。僕はそんなにプレッシャに強いタイプじゃないし、すべてをなげうって仕事をするより、人間らしく楽しく暮らしたいと思う。そう思っているのに、評価されるとやっぱりうれしいんです。無理をしてしまうんです。そしてそれはじわじわと内面をむしばんでいくんです。脆くなったところに荷物を積み増しすることになったら、潰れます。気持ちの外殻は紙のような物質ではなくて、風船みたいなもので、だから限界が来たら大部分が、あるいはぜんぶがいっぺんに、だめになる、僕はそう思う。
 彼はそこまでを水が流れるように語り、それからつぶやく。僕は僕の風船についてよく知っているので、なにしろそれなりに自覚的に四十二年つきあってきたので、それが限界を迎える前に調整します。なにがなんでも調整します。だからマキノさんに迷惑をかけました。ごめんなさい。でもお願いします。
 彼はぺこりと頭を下げ、私はあわてて酔っぱらった頭をひっかきまわし、世の中に昇進して謝られる人はいませんと言う。彼はずるそうな上目遣いをつくり、マキノさんはそうだ、と言う。マキノさんはそういうのがほんとうは嫌いだ、いちばん若い役職者になるなんて嫌いだ、マキノさんはそれから急なのが嫌いだ、そうじゃありませんか。
 私はすっかりおそれいって、そうです、と認める。彼はすっきりと面を上げ、知っていてしました、と宣言する。このあいだ加賀さんと小堺さんと飲んだんですけど、小堺さんああいう人だから言うんですよ、まーだ子どもつくんないのって。僕も妻もいつもならそんな外野のお囃子はどうでもいいんだ、でも僕はそのときものすごく腹を立てた。死ねばいいのにと思った。僕子どもつくれないんですよって言ってやろうかと思った。嘘だけど。
 私はしんとする。それから腹を立てる。言えばいいじゃないですかと言う。そんなの、言ってやったら、いいんです。彼はひっそりと笑い、僕はばかにかまう人間ではない、とこたえる。それなのに全力でかまいたかった。風船の歪みが目の前に見えた。兼任を解こうと思った。僕は弱っていた。傷つくのは弱いからです。
 私はなんにも言えなくて、がんばりますと口にした。彼はかなしそうに言った。ありがとう、マキノさん。