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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ICチップが傷つくように

彼は眼球だけでさっと左右を見渡し、これは秘密なんだけど、と言う。僕はほとんど文無しなんだ。今。現金に関してだけ。私は目を丸くし、彼の真似をしてそれを動かし、私のおばあさんの七十八のときの口調で、まあ、と言ってみせる。彼は笑う。私たちはおそらく私たちにしか通用しない冗談を何種類か持っている。
彼は空港に向かう前にコンビニエンスストアに立ち寄った。ペットボトルのお茶を買い、ミントのガムを買い、小さなシャンプーを買い、ATMで現金を下ろそうとした。それは彼のキャッシュカードを拒絶した。彼は片眉を上げ、そのエラーメッセージを暗記し、非常用に持っている郵便貯金のカードを使った。
彼は長いこと一緒にいた恋人をひどい経緯でうしなったばかりで、むりやり有給休暇を取って日本の南の島に行くところだった。その島にはクレジットカードなんてことばはない、と彼は予測していた。なにしろなんにもないのだ。彼はそこで山羊のように一週間を過ごすつもりだった。彼はひどく疲れていた。プラスティックのカードをつまむ指はやはりプラスティックだった。単純な景色、単純で善良な景色が必要だった。だからすぐにキャッシュカードとATMのことを忘れた。それは彼が暫定的に置き去りにする世界に属するものだった。収入。支出。数字。技術。コンビニエンス。
彼は大きな島で飛行機を降り、高速船に乗りかえて果ての島に逃げこんだ。そうして彼の望みどおりに山羊の生活を送り、いささか回復した。彼は基本的に健全でタフな人間であり、正しい割合で寝て起きて単純な食べ物を食べていれば身体の感覚を正常に戻すことができる。何も考えない状態を精密に遂行することができる。頭の中がぐずぐずに腐るような美しいだけの小説を読んで剥がし残した感情を煮溶かすことができる。泡盛だって飲んだ。完璧だ。
彼はあまりに完璧に休息したので大きな島に戻ってはじめてキャッシュカードのことを思い出した。彼は小さい空港の小さい待合のビニール張りの椅子にだらしなく背中をあずけ(彼は日ごろからしばしばだらしない座りかたをするけれども、それは前のめりの姿勢であり、休暇中の空港の椅子の上ではそうではなかった)、鈍い動物のような地上の飛行機の前のガラス窓のさらに手前にそれをかざし、役に立たないICチップを眺めた。それから突然両親のことを思い出した。彼と疎遠というほどではないけれど親密とはいいがたい父親のカードを持って途方に暮れる、やはり親密にしてはいない母親の姿を想像した。
父が、と彼は言った。ICチップが傷つくようにある日母に心をなくして、母のカードを止めてしまうことがあるんだと思った。それはきっとあるんだと思った。そしたら母は途方に暮れるだろう。母は南の島に行くことだってできない。
私は六秒間の沈黙を使って彼の話の終わったことを確認し、あなたの恋人のように、と言う。ある日心をなくすことはあるよ、ほかの人たちが帽子やステッキをなくすみたいに。そんなのはありふれたことなんでしょう。あなたと彼女の七年がきれいに消えたのだからあなたのご両親の四十年だって消えることがあるんでしょう。でもそれを切々と実感してしまうのはどうかな、健全なことなのかな。
健全ですよと彼はこたえる。これ以上ないくらい健全な認識だよ。サヤカはぼんやりしてなんとなく幸福だからそのことがわからない。早く帽子かステッキをなくすといい。そんなのはよくあることなんだ。
私は彼の恋人について考える。彼らの美しい日々と、それがあっけなく消えたときの感触を想像する。私のあらゆるICチップが傷つくところを想像する。私は明日会社に行くと席がないのかもしれなかった。自宅に帰ると鍵を挿しても扉は開かないのかもしれなかった。通帳はいつのまにか空なのかもしれなかった。区役所に行くと戸籍はないのかもしれなかった。それらはすべてありうること、もしかしたらありふれたことだった。
だって自覚しないうちに会社を追われていることがないと、どうして私に言えるだろう。誰かに騙されてささやかな貯蓄も社会的な居場所もぜんぶ失っていないと、どうして言えるだろう。彼は正しかった。過剰に正しくなければいられないからかわいそうだった。
私はそれから少し笑って、たまにはご馳走しましょうか、と言う。だってあなたは文無しだものね。今日だって休暇明けの翌日で、銀行が開いている時間に窓口に行くことなんかできなかったんでしょう。すると彼はことさらに卑しげな所作をつくってひらひらとクレジットカードを振り、十年早い、と言う。