傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

肯定供給機の反乱

彼女のほほえみには抜群の安定感があった。誰かにうなずいてみせることに関してキャリアを積んでいる笑顔。ええ、そうね、でももう、いいの。そのせりふはいかにも彼女のものらしかった。彼女は許容する、彼女は寛容でいる、彼女は忘れてあげる、あの人はやさしいねとみんなが言う。私の見慣れたその笑顔は、けれども予想外のことばを出力する。私あの人たちを捨ててきたから、もういいの。

彼女の兄は十年外に出ていない。大学生のときに部屋にこもるようになって、退学し、何度かアルバイトに出て、それきり家から出ない。彼女は本を読み兄を責めてはいけないと思った。彼女の母もそう言った。彼女の父は何も言わなかった。
彼女の兄は近ごろ何も言わないけれども、昔は両親や彼女のせいだとよく言っていた。この異常な家庭のせいで自分は外でうまくやることができなかった、だから両親と彼女は責任をとって彼に人生を返還するべきなのだと。
人生の返還のしかたがわからないので彼女はただ兄の話を聞いた。兄を愛する両親の話も聞いた。彼女がうなずくと母は喜んだ。母のことばはしばしば「そうよね」で終わった。念押し。彼女はタイミングよくうなずく。母は喜ぶ。
職を得てからは収入の半分を家に入れ、母と家事を分担し、そうして、うなずき続けた。ありふれたことみたいよと母は言った。芸術家が自分の内面に向きあうだとかね、今はほら、大学出てすぐに就職できるわけでもないでしょ。そうねと彼女は言った。そのようにして彼らは十年を暮らした。

薄汚いものがべったり手についたので振りはらった。薄汚いものを見ると兄の下着だった。彼女は洗濯物を干していた。彼女は突然思った。私はお兄ちゃんが嫌いだ。虫唾が走る。彼女は二日後にウィークリーマンションを借りてそこに住みはじめた。

そこまで聞いて、私は彼女の話を止めた。ちょっと待って。私たち、何度もあなたのお兄さんはだめだ、そんなに家にお金入れなくていい、家出ちゃえって言ってたよね。どうして今になって突然ひとりで真実を悟っちゃったの。彼女はずいぶんと気持ちよさそうに話す。なぜかしらねえ、誰に何を言われても私、あの家の人たちを肯定しつづけたのに、急に、いやになった。自我に目覚めたのかしら。肯定供給機であることをやめた、と私は言った。彼女は笑った。その言い方、悪くないね。
彼女は彼女の母の肯定供給機だった。彼女の母は彼女の兄を肯定するために彼女を使役していた。そうして十年が過ぎてから、なんの前触れもなく、彼女は反乱を起こした。肯定供給機の反乱に武器はいらない。ただ出ていけばいい。彼らは彼女にたぶらかされた自我でもって毎日自分を傷つける。彼女の母は何度も何度も彼女に電話をかけた。ねえどの家庭にだって問題はあるわよね。彼女はその番号を着信拒否にした。
せいせいしたので家とは関係のない恋人も捨てたのだと彼女は言って、楽しそうに笑った。
彼女の元恋人は彼女に電話をかけてきて自分がいかに退屈でさみしいかを口にした。そうですかと彼女はこたえた。それが私にとって何の意味があるかをこの人は説明するかしらと思って聞いていた。でも彼は一度も彼女について口にしなかった。彼が話したのはただ彼のことだった。彼は彼女に関する自分の感情さえ口にしなかった。だってそんなものはじめからないものね、と彼女は思った。
彼はその話を三度めぐらせた後で尋ねた。どうして戻ってこないの。だってあなた自分のことにしか関心ないものと彼女はこたえた。それじゃ俺最低じゃんかと彼は言った。自分が最低に思えることを私にどうにかしろと、どうしてあなたは要求できるの、と彼女は尋ねた。彼は答えなかった。彼は彼女に何かを要求する理由なんて考えたことがなかった。彼女はただそういう存在なのだと思っていたのだ。きっとそうだと、彼女は思った。
彼氏も災難だねえ、もう完全に「ついで」じゃん。私はげらげら笑ってそう言い、彼女はつつましくうなずいた。母との関係で培った能力を求められていたから、ついでに処分するのは理にかなっていると思うの。愛しているからお金をあげるように肯定を供給しつづけて一緒にいてもらうならまだ美しい物語だけど、そういう感情もなかったから。
誰かにお金をあげるようにあなたの上手な肯定を供給しつづけて一緒にいてもらうことはこの先、ありそう?私がそう尋ねると彼女は目を見開いて、怖いこと訊くのね、と言う。こんな怖い人に怖いと言われるのは心外だなと私は思う。この人が肯定供給機に復帰して誰かひとりのためにうなずき続けたら、その人はきっと簡単に芯からだめになるだろう。

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