傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

憎しみを捨てる

うちの男の子がねと彼女は言う。彼女には三歳の男の子がいるけれど、その子のことはそう呼ばない。武生がね、と言う。うちの女の子、というときも同じだ。彼女に娘はいない。うちの男の子がね、同期が結婚しちゃってつらいみたいで、ああその同期の女の子を好きだったわけ、だいぶがんばって、でも学生時代からの彼氏に勝てなかったみたい、それで、殴る夢を見るというの。
彼女の話はよく跳躍するので私は好きだ。少しわかりにくいけれど、速度の感覚がある。わかりやすさなんかたいしたものではない。わかりやすさのために話を聞くのではない。快さのために聞くのだ。
その好きな人を殴る夢を見る部下って、よく相談に来るの。私がそう訊くと彼女は首をかしげる。ほかの子はいろいろ相談してくるけどあの子はしないな、でも今回は、なんていうのかしら、まだ仕事に支障は出てないんだけど、たぶん持ち帰ってどうにかしてるんじゃないかと思うんだけど、半分夢を見てるみたいな、気配が薄いみたいな、そういう感じで、だから、私から訊いたの。それでねサヤカ詳しいからそういうの、解説してもらおうと思って。
そういうのってと私は訊く。繰りかえす夢だとか、ぼんやりすることだとか、ほら、サヤカ基本上の空じゃない。あの子はそれがもっとずっとひどくなったみたいなね、そういうタイプじゃなかったのに、とってもよくできる、うちでいちばんできる若手で、頼りにしてたのに、あんなになっちゃって、私、心配でねえ。
私のことは心配しないのと訊くとだってずっとそうなんだもんと彼女はこたえる。わけもなく昔からうっすらぼんやりしている人と、わけあって急に激しくぼんやりするようになった人は違うでしょうよ。
違うねと私はこたえる。でも私はその人を心配しないよ。あと私のは解説じゃなくって解釈だよ。解釈っていうか妄想。それでもよければ話すけど。そう言うとそれ以外のなんにも求めてないと言って彼女は笑う。あなたはぼんやりしてわけのわからないこと考えてるから、だから訊くのよと言って、笑う。この友だちはとても頭が良くてなんでもできるので、私のことを無力な人間だと思っている。私は気を許した相手からなんにもできないかわいそうな人のように扱われることが嫌いではない。
その人はたいそう仕事ができる人なんだねと私は言う。彼女はうなずく。その人あなたと同じ大学出てるでしょうと私は言う。彼女はうなずく。顔もきれいなんじゃないと私は言う。悪くないかんじと彼女は言う。なにか趣味があって、わりと社交的で、礼儀正しくて、年上受けもいい、と私は言う。彼女はわずかに首をかしげて、そんな感じかな、と言う。
結婚しちゃったっていう同期の女性は、と私は言う。きっとちょっとかわいい。でもものすごく目立つタイプではない。魅力的だけど、ばかみたいにもてるってことはない。違う?彼女はこたえる。中身まではわからない、飛びぬけた美人ではないよね、でもかわいい女の子。
私は息を吐いてから口をひらく。それじゃあ私の妄想はひとつしか残らない。彼はその女の子を憎んでいるんだよ。なぜなら自分の手に入らなかったから。手に入るべきなのにそうならなかったから。だから殴りたおしてやりたい。でもなかなか表に出せない。なぜかっていうと、いい子いい子って言われて大きくなったから。憎むということに慣れていない。それに自分の傲岸や自分の卑しさを受け入れることもできない。だから憎んでいるのをなしにしようとしている。そしてそれに失敗している。ぶざまだなあ、私は嫌いだよ。
ひどいと彼女は言う。その人のこと心配してないって最初に言ったじゃんと私は言いかえす。私は自分の卑しい感情から逃げられると思っている人が嫌いなの。そういう人間が繰りかえす夢に追われるのは当たり前のことだよ。自分の感情からは逃げきれない。それは追いかけてくる。捨てられた感情の手のいちばん届きやすいところが夢で、だからそういう夢を見る。そしてそれからも逃げようとしたら、目をあけているところに夢が侵入する。
サヤカは繰りかえす夢をどうやって片づけたのと彼女は訊く。片づけてないと私はこたえる。今でも定期的に見る。ただ内容が少しずつましになった。今ではとくに怖くない夢になった。
どうやって夢を変えるのと彼女が訊くので私はあきれてこたえる。現実を変えるんだよ。現実を変えれば、それにまつわる自分の感情が変わる。そしてそれをキャッチする、しっかりと観察する、その感情の主人になる。ほかに方法があるはずないでしょう。