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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの図々しい質問

 それ三回目ですよと私は言った。うそうそと森先輩は言った。嘘じゃないですと私はこたえた。私が二年生のとき、講座に出入りしはじめてすぐと、先輩が卒業する直前、それから、今です。先輩は私と羽鳥さんの顔を見て、執念深いと言って、笑った。覚えてないよ、そんなこと。
 森先輩と羽鳥さんと私はいま並べた順番でひとつずつ年齢が若い。私たちは同じゼミの卒業生だ。私と羽鳥さんは在学中からの友人で、今でも年に何度か会う。森先輩と羽鳥さんはときどきメールのやりとりがある。そうして今は、干支一回分ぶりに三人で顔を合わせていた。卒業生の名簿が必要になって、学年からひとりずつ集まって打ち合わせをすることになったのだ。
 打ち合わせは滞りなく終わり、近い業種同士の世間話になり、そうして先輩は言う。それで結局槙野と羽鳥ってつきあってんだっけ。違いますとだけ私は言う。気を悪くしたことを察してほしいと思う。でも森先輩はそういう人ではない。残念なことに。
 それじゃこれも三回目かなあ、羽鳥って結局なんなの、男が好きなの。結婚とかしねえの。
 先輩は薄笑いのままそう続けて、私が何か言う前に、しませんよと羽鳥さんが言った。羽鳥さんはただ否定して適当にかわして笑って済ませる。いつもそうだ。私はそれがいやだ。そう思っていたから、私はひどく驚いた。だって羽鳥さんは笑わず、冗談を言わず、黙りもしなかった。
 人のからだが気持ち悪くて見るのも触るのも無理だからつきあうとかしないんです。前から思ってたんですけど先輩って人との物理的な距離が近いですよね、肩とかたたくし。悪いけど気持ち悪いです。意味がない接触でも関係ない、僕には気持ち悪い。不快です。そういう人間が結婚とか男とつきあうとか槙野さんとつきあうとかありえないですよね。わかりましたか?
 先輩は半分笑った顔で、え、なにそれ、と言った。わかりませんかと言って羽鳥さんは笑った。別にわかってもらわなくていいです、ただ何度も説明を求められたので興味があるのかなと思って、嘘つくのだるいんで、説明しました、もういいですか?
 びっくりしましたと私は言った。それはそうでしょうと羽鳥さんはこたえた。私たちは駅に向かっていた。僕はねと羽鳥さんは言った。僕は年をとって、ずうずうしくなったので、職場の人だとか、利害関係のある人じゃなかったら、がまんしないことにしました、僕は、異常だから、僕の説明を聞けば人は不快になる、だから嘘をつかなきゃいけないんだと、そう思っていました。でももうめんどくさい。あの人たちだって別に僕に興味があって訊くわけじゃない、理解なんかされなくてかまわない、ただ言ってやればいい。そう思いました。ごめんなさい。
 異常じゃないです、あと謝ること、ないです、よく言ってやったと思います、気持ちよかった。私がそうこたえると羽鳥さんはひっそりと笑い、僕は槙野さんのことも気持ち悪いと言いました、と続けた。他者に触れたい大多数の人々を気持ち悪いと言った。槙野さんだってそのひとりです。でも言いました。甘えていると思います。槙野さんは気持ち悪いと言われても怒らないと思いました。先輩が何か言ったら僕の味方をしてくれると思いました。
 私たちは非接触ICカードの入った財布をかざして改札を抜けた。そんなの当然ですと私はこたえた。あの質問、私、いやでした。そう言ってなんだか少し泣きそうになり、それを表に出さないために意識の焦点をずらし、そうして、自分が持っているのが羽鳥さんのためでなく私のための感情であることを自覚した。自覚して、でも少し混同したままで話した。
 彼らは、と私は言った。質問をします、どうして女とつきあわないのか。どうして結婚しないのか。どうして。それは、そうしないのはおかしなことだから、理由を説明しろ、納得できる理由をよこせと、そう言っているのと同じです。彼らは、質問する権利があると思っている。まともじゃない人間はその理由を述べるのが当然だと思っている。だからあんなふうに楽しそうに質問する。羽鳥さんに自分の気に入る嘘をつかせることを当たり前にしている。そんなの間違ってます。彼らの機嫌をとってやる義理はありません。答えてやればいいんです。質問したのは、彼らです。
 羽鳥さんはうつむいてありがとうと言った。私もうつむいて私のためですとこたえた。知っていますと羽鳥さんは言った。アナウンスが私たちのせりふの端を削りとった。同じ色の電車が、ホームの両側にすべりこんだ。私たちはそれぞれの手を軽く挙げ、それぞれの電車に乗りこんだ。