傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ふらんすはあまりに遠し

 そんなの四ツ股のばちがあたったんですよと誰かが言った。カトウくんはそちらを振りかえって声を出して笑った。なに?四人?同時に?まじで?とシライシさんがたたみかけ、まじっすとカトウくんでない誰かがこたえる。シライシさんはつくづくとカトウくんの顔を眺めた。私も眺めた。
 カトウくんは私とシライシさんの目を順繰りに見て言う。とてもそうは見えないと、お姉さまがたはそうおっしゃりたいわけですね。実際のところ、カトウくんは桁外れに女の子たちに人気があるようには見えない。ふつうだ。それで私はことばを選んで言う。二股くらいなら、まあ、あるかな、と思うけど。
 二股ありですかあ、ちょっと槙野さあん、と誰かが口をはさみ、私はあわててそちらを向く。カトウくんの話ですよ、それに、ほら、好きな人ができたときにつきあってる人がいたら、その人と別れる前に、なんていうか、重なっちゃうことくらい、あるんじゃないですか、のりしろっていうか。
 それから何人かがのりしろの是非について語りだし、私はしばらく黙って時機を見計らっていた。そうしたらシライシさんがあっさりと質問した。それでカトウくん、どうして四人も。どうやってつかまえとくの。私なんか旦那ひとりで手一杯だわよ。誰と何しゃべったかとか覚えられないんじゃないの。
 カトウくんはひとさし指と中指を立てて、WhyとHow、どちらを答えましょう、と聞きかえす。両方、順番は、そうねえ、Howからがいい、とシライシさんは言い、承知しましたとカトウくんはこたえる。カトウくんは硬いことばをよく遣う。若い身空で重苦しい小説ばかり読んでいるせいだと思う。
 方法は努力です。ただひたすらに努力。ちょっとでも見込みがあればがんがんいく。かなりかわいい子でも意外といける。なぜならどんなにかわいくても彼氏いなかったり彼氏に不満があったりする時期があるからです。
 カトウくんはそのように語り、そこまで徹底して数をあたる方針ってむしろさわやかだわねえ、とシライシさんが感嘆した。浮気者は私の知りあいにも何人かいます、と私は言う。でもカトウくんのとは違う。カトウくんのを通常の浮気と同じに扱うわけにはいかないと思う。そこには何か決定的な違いがあると思う。そう思うから訊きたい。カトウくん、四ツ股の動機はなんですか。
 年をとることですとカトウくんはこたえた。私とシライシさんは顔を見あわせて首をかしげた。カトウくんは言う。僕は年をとってじじいになります。つきあってもいいと思える女の子が何人も僕のところに来てくれるなんて今だけです。だから四人でも五人でもつきあいます。十九二十歳の女の子とつきあうなんてできなくなるんだから。
 シライシさんがいささか真剣な調子で質問を重ねる。二十八の男の子がそんなふうに考えるのはちょっと病的じゃないかしら。相手が二十歳じゃなきゃいけないのも。二十三歳もいますよとカトウくんは力なく笑う。それから口をひらく。年とって平気な顔してる人たちは恋愛なんかどうでもいいんじゃないですか。俺が槙野さんだったら絶望するよ、そんな年になっちゃって、家庭もなくて。シライシさんがぱっと私の顔を見た。私は笑い、あらまあ、と言った。
 どうでもよくはないですよ。恋愛はいいものです。でもたしかに年をとるともてませんねえ、このあいだね、カメラの仕事をしている人が、僕とパリに行きましょうと言うの。槙野さん日本にいたってもうもてないでしょ、フランスに行けばこれからですよ、僕はそこらへんで景色とか撮ってるんで槙野さんは適当にもてていてください、きっと楽しいですよ、二週間くらいどうでしょう。そう言うの。
 カトウくんは静かに、僕だったらそいつを殴ります、と言った。どうして、と私は尋ねる。恋愛できることを人間としての価値に織り込んでるようなだめなやつだからですよとカトウくんは言う。あなたもう恋愛できないでしょうなんて言われたら殴りますよ。そんなの侮辱にしか聞こえないから。
 しんどくないですかと私は訊く。生きていれば年をとります。あなたの二十歳の恋人も。さっきのせりふはどう考えても冗談です。それを聞いて他人なのにそんなにつらくなるのはやっぱり気の毒です。だめなやつとまでは思わないけど。
 しんどいですよとカトウくんは言う。だからってどうしたらいいんですか。パリに行けばいいのよとシライシさんが言う。カトウくんは楽しそうに笑って、ふらんすに行きたしと思えど、と言った。ふらんすはあまりに遠し、とシライシさんが言った。