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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

日経平均株価が怖かったおばあさんの話

 小さい、東京弁、指が長い、右手の小指の爪が黄色い、めがねはピンクのセルフレーム。彼女はそのおばあさんの特徴をおばあさんの名前とリンクして頭の中に列記した。新しくお年寄りが来ると彼女はいつもそのようにする。
 彼女が相手を覚えるには、少し長い話をすることが必要だ。人生、と彼女は思う。人生のほんの一滴でもいいから見せてくれなくてはね。そこではじめてキーワードの群れが生きてくる。小さい、東京弁、指が長い、右手の小指の爪が黄色い、めがねはピンクのセルフレーム
 カツラギさんのめがねいいですねと彼女は言う。おしゃれ。おばあさんはうなずく。でも話さない。彼女は手を動かしながら勝手に話す。彼女の生活について、彼女に最近おきたできごとについて。手を動かしている切れっ端のような時間にあわせてそれらを切り刻み、彼女は話す。そういうのが好きなのだ。だってそうじゃなかったら腰が痛くなるだけじゃない、と彼女は思う。腰が痛くなる姿勢を要求するささやかな技術を発揮してるだけじゃない。小さくても人間関係が発生するからサービス業なんじゃないかな。
 ある日おばあさんは口をきく。あんたはあれだね、と言う。彼女はにやりと笑う。
 それから一年ばかり経って、テレビを観ながらおばあさんが言う。あたしは悲しくってしょうがないよ。どうしてと彼女は訊いてテレビを見上げる。アナウンサは日経平均株価を読み上げている。
 いま悲しいニュースじゃないよカツラギさん。彼女が言うとおばあさんは顔をしかめる。あたしは昔からあれが嫌いでねえ。国と国がねえ。怖いじゃないの。そう言ってぶるりと身をふるわせるしぐさをしてみせ、顔をくしゃくしゃにして(カツラギさんがじゅうぶんに読めるのはカタカナだけで、語彙は多くなく、身ぶりと表情でいろいろなことを伝える能力に秀でていた)、ぴぁ!と言った。
 ぴぁ!というのはカツラギさんがときどき使う「カツラギ語」のひとつで、用例から推測するに、「現在話題になっていることは、ネガティブな意味あいで私の許容容量を超えている。ゆえにここで話を切ります」という意味なのだった。廊下を歩きながら、ああ、と彼女は思う。
 カツラギさんは世界のほとんどの部分を知らなかった。ほとんどのことばを知らなかった。それらはカツラギさんにとってどこまでも不可解な魔法であり、不可解であるというだけで簡単に邪悪な色彩を帯びる。
 カツラギさんは亡夫を熱烈に愛している。自分より先に亡くなったことを今でも許していない。ほかに許せないことはないのと訊くとなんだいそれはと訊きかえす。イサオさんはそりゃあいい男でねえと、はずかしそうに言う。その夫とふたりでめいっぱい働いて七人の子を育てた。カツラギさんは豊かな人生を送り、まずまずの老後を過ごしている。
 けれども、と彼女は思う。けれどもそのことはカツラギさんが世界の大半を知らずに生きてきたことを贖わない。カツラギさんは死ぬまで日経平均株価とそれに類する大量のものどもに怯えなければならない。

 それは不幸なことなのと訊くと不幸じゃないよと彼女はこたえる。彼女の夜勤明けの、彼女には夜中であるような、私には休日の起きぬけであるようなランチをとっているところだった。彼女は言う。
 私だって世界のすべてを知っているわけではないし、だから時に何かを邪悪な呪文のように感じる。けれども私たちは抽象語彙の操作の基本と未知の事象を理解するための手順を知っている。どんな分野でも、専門家をあいだに挟んで、時間をかけて勉強して、真剣に読解すれば、概略を理解できないことはない。そうだよね。
 カツラギさんがそれを学ぶ機会を得ることができなかったのは、不幸でなければなんだろう。私が尋ねると、彼女はまず運ばれてきた皿をながめ、ごく真剣な顔で香草で焼かれた鱸を切り、咀嚼し、存分に時間をかけて飲みこんだ。それから、言う。
 不幸じゃないけど、正しくない。カツラギさんはそのチャンスを投げ捨てたわけじゃない。カツラギさんにはチャンスが与えられるべきだった。世界の意味を知る基礎の基礎を学ぶ機会は誰にでも与えられるべきだよ。そんなものなくったって幸福ですばらしい人生を送ることができる、でもそれが選択肢に入らないのは、正しいことではないの。
 私がうなずくと彼女は笑い、根拠、ないよ、こんなの世迷い言だよと言ってからりと笑い、ねえその肉も美味しそうだねと言って、私の皿を覗きこむ。