傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

被初恋の人

 あんまり知らない人から、それもちょっと悪くない感じの人から好きですって言われたら、マキノどう思う。彼がそう訊くので私は少し考える。どうって、相手によるけど、嬉しいかな。でも相手のことよく知らないんだよね、それならまずはお話をしなくてはね。食事に行きましょうと言うよ。あるいはお茶、お酒など。
 僕もそう思った、と彼は言った。でもずいぶん勝手が違ったんだ。それからなぜか携帯電話を一度手に取り、操作せず鞄に戻し、話しはじめた。
 彼はよく知らない女性から好きですと言われ、持ち帰って検討した。まずは話そうと思って受けとった電話番号にかけると、彼女は出なかった。折り返しもなかった。半月ばかり経ってから突然電話があった。ごめん仕事が忙しくて、と彼女は言った。それで、なんの用だったの?
 あなたが僕に用事があると思って、と彼は言った。だからかけたんだ。そうなんだ、と彼女は言った。彼らは少しのあいだ沈黙した。彼は尋ねた。僕はわりとまじめにあなたの言ったことについて検討していたんだけれど、とくに必要なかったみたいだね。彼女はさっぱり理解できない様子で、なくはないよ、時間があったら遊んで頂戴と言った。彼は少し混乱し、とりあえず電話を切ると言った。またかけるねと彼女は言った。なぜと訊くと彼女は不思議そうに、なぜって、かまってほしいときがあると思うから、とこたえた。彼は電話を切った。
 彼女の好きですっていうせりふはシリアスだったわけね、と私は確認した。シリアスだった、と彼はこたえた。それはきわめてシリアスだったし、何度か繰りかえされた。切実な恋の告白のように、と私はおぎなった。切実な恋の告白のように、と彼はうなずいた。それから少しのあいだことばを選んで、言う。
 僕は誰かをないがしろにすることはあっても、僕を好きだという人を、それを笠にきてないがしろにすることはない。それは僕の中で生き残った数少ない倫理なんだ。でもそんなのぜんぜん必要ないみたいだった。まるで「私はまい泉のかつサンドが好きです」っていうのと同じ意味で「私はあなたが好きです」って言ったみたいだった。そしてソースを吸った衣とパンの接着面についてだとか、絶妙な肉の厚さについてだとか、そんなことを熱く語ったわけさ。でもすぐに忘れる。なにしろかつサンドだから。
 なるほど、と私は言った。あなたはぜんぜん悪くないよ。そんな目に遭ったら私だって困っちゃうよ。でも生涯かつサンドのようにしか人を好きにならない人もいるからね。そこは考慮しないと。
 かつサンドでもいい、と彼は言う。でもそれならそうとわかるように言ってほしい。あなたを気に入ったからかまってくださいと言えばいい。そういうのはぜんぜん問題ないっていうか常時大歓迎する。でも変な表現で非かつサンド的な世界にいる他人を振りまわすのはだめだ。田中さんに誓ってだめだ。田中さん、と私は尋ねる。うん田中さん、と彼はうなずく。僕の被初恋の人なんだ。つまり生まれてはじめて好きになった人が僕だっていう女の子。
 田中さんは彼が中学二年生のとき同じクラスにいた女の子だった。やせっぽちで小さくて、歯の矯正をしていて、それを気にして口をあまり開かない奇妙な話しかたをした。田中さんはとくにかわいくはなかった。
 ある日、田中さんはまっすぐに彼を見て、そのときだけは矯正器具のことなんか忘れたみたいに(でも忘れていないにちがいなかった。彼女はただ勇敢だったのだ)、好きです、と言った。彼はとても驚いた。田中さんは自分という存在をぜんぶそこに投げだしているように見えた。田中さんは彼からなにももらえないことをおそらく知っていた。でも同時に自分の気持ちが重要なものだということも知っていた。だから田中さんは勇敢に、礼儀正しく、彼にそれを伝えた。
 彼はどうもありがとうと言った。田中さんとつきあえないです。でもありがとう。田中さんはにっこり笑った。やっぱりかわいくはなかった。
 彼の心はまだ幼く、誰かを特別な存在だと思ったことはなかった。いつか僕にそのことが訪れたときに、と彼は思った。僕は田中さんのようでなくてはならない。きっとそうだ。
 彼が話し終えると、田中さんがいてよかったねと私は言った。彼は誠実な人間とはいえないし、たいていの場合、楽でたのしいことに流される。田中さんがいなかったら、彼は今よりずっといやなやつになっていただろう。
 かつサンドの人に電話してお説教してやりなよ、と私は言う。田中さんに謝れ、って。彼は可笑しそうに、謝るかな、とつぶやいた。きっと謝るよと私はこたえた。