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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼は何を詐取したか

 渋滞は地の果てまで続くように思われた。地の果ては見渡すかぎりの断崖絶壁で(地動説なんて真っ赤な嘘だったのだ)、渋滞の先頭に達した車がざあざあ落ちていく。高速道路には逃げ道がない。この車を乗り捨てて逃げなくては。
 私がそのような妄想に浸っていると、寝る、と運転手が宣言した。みんなが寝たら私も寝る。寝ない寝ないと私たちは約束した。私たちはすでに、久しぶりに会った古い友だちとする話をひととおり済ませていた。なにしろ旅行中だから、話す時間が長い。
 怖い話をしよう、と隣の友人が言って、順繰りに手持ちの怪談を披露した。最後に残った助手席の友人がゆっくりと振りむいて、言った。私のは怖いよ。
 彼女の会社の同期にひとりの男性がいる。配属部署が遠いからふだんの仕事では接点がない。ある日、彼の上司が彼女を訪ね、ちょっと教えてもらいたいんだけど、と言った。あのね、彼、同期の、どうかな、なにか、気になることはありませんか。上司のせりふがあまりにあいまいだったので、彼女は辛抱強く彼のほのめかしの沼を探った。
 彼の仕事中の言動に、とくに問題はない。ないように見える。けれども上司が彼の上司となってから四年で、三人の女性が彼にまつわるイレギュラーな行動をとった。当初彼の補佐役だった女性は、半年後に上司に配置換えを申し出た。もうひとりは彼と同じ営業職の女性で、二年ほど前から、彼が仕事上の必要性から近づいてゆくと、業務中とは思われないほど露骨にいやな顔をするようになった。最後のひとりは現在彼の補佐をしており、辞意を申し出た。多い、と上司は思った。四年で三人は多い。しかも今のひとりは辞めるという。日常のことではない。
 彼女は彼の補佐役をしていて担当を外してほしいと希望した女性とときどき話すことがあった。だからその女性を昼食に誘って尋ねた。女性は、たいしたことじゃないんですけど、と言った。なんかむかついちゃって、すごいやりにくくて。きみはこうだからこうしなさい、みたいなこと言うんだけど、なんか全然見当はずれっていうか、よくわかんなくて、それに第一、うちの営業補佐って、べつに営業の部下とかじゃないじゃないですか。営業さん主導ではあるけど。でもほかの人はあんなじゃないですよ。
 なるほどと彼女は思い、次に「露骨に嫌そうな態度になった」という女性に相談を持ちかけた。ふだん話さないのでずいぶんと不審げではあったものの、彼の名を出すと納得した様子で、ああ、あの人、なんか、勘違いしてますよね、と言った。彼女がいくつか質問を繰りかえすと女性はさらさらと話した。急に私の仕事にけちつけるようになったんですよ。なんでか知らないけど。それもなんていうか、私のため、みたいな。しかも合ってないし。しまいには私が会社のために一生懸命になりすぎてるけど空回りしてて見てられない、とかって。意味わかんない。
 彼女は頷き、ありがとうございましたと言った。そして彼に電話をかけた。同期だから電話番号は知っている。でもかけるような間柄ではなかった。だから彼は少し驚いていた。でも十分もすると、機嫌よく話しはじめた。彼女はそれを聞いた。翌日、今度は彼から電話がかかってきた。彼は彼の話をし、それから、彼女がもう寝るから、というと、ああ佐野さんは健康的な生活してるもんね、と言った。彼女はそうではなかった。
 一週間後、彼は言った。佐野さんはさみしがりやのくせに意地っぱりだからなあ。彼女は、親しい人には、決してそうではなかった。彼女は率直でよく甘え、また甘えられる間柄を好んだ。彼はこうも言った。佐野さんには芸術の素養があるからね、部屋にこもっていないで美術館にでも行くといい。彼女は、そうではなかった。
 きゃあああ、と隣の友人が悲鳴をあげ、運転している友人も唱和した。私ももちろんきゃあきゃあ叫んだ。ひとしきりそうしてから、助手席の友人が言う。たぶん、空想と理解の区別がつかないというか、それが理解というものだと思ってるみたいなんだよね。辞めるって言った女の子が何言われたかわかんないけど、おとなしいタイプだったんじゃないかな、それで我慢して聞いてたのかも。
 あのさ、その人のしたことは、泥棒みたいなものだよ、なんか、うまく言えないけど。私はそう言い、それから思う。でも彼には決してそのことがわからないのだろう。地動説の世界にいて実は天動説が正しいと言われたみたいに、わからないのだろう。そうしていつか、世界の果ての崖のふちから、まっさかさまに落ちていく。