傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

二重写しの視界

 彼のあいさつを聞いて、堂々としている、と私は思った。とても、堂々としている、このひとはまるで、失敗したことがないみたいだ。
 彼はずいぶんと名のある企業から、若いうちに裁量を与えられたくて転職してきたというのだった。いかにもさわやかな様子だったので、お酒の席で、久々のヒット、などという女性たちもいた。マキノさんはどう、と訊かれて私はあいまいに笑い、首を横に振った。どうしてと訊かれて、私は、はじらいのない 人は、なんだかいやだ、と思って、でも言えないから、だって、年下でしょう、とこたえた。いくつも変わらないじゃない、マキノさん古いんだから。そう言われて私はもう一度、あいまいに笑った。
 ほどなく、彼に関する噂を聞かなくなった。みんなそれに飽きたのだ。でも私は飽きなかった。彼のたたずまいはどこか奇妙な余韻を感じさせた。それは決して快い感覚ではなかった。彼は相変わらず、ひどく堂々としていた。
 彼は七ヶ月で辞職した。充分な経験をさせていただきました、これから自分で事業を起こします。あいさつの場で彼は堂々とそう言った。成果が出ていないだけでなく、比較的単純な日々の業務についても言を左右にして処理していなかった、そのことを叱責されつづけたあとのことだと、誰かが言っていた。
 似た人が、うちの会社にいる。私が彼の話をし、それが終わったとたんに美濃部は言った。
 言うことはすごく立派なんだよね、だから周りは期待する、でも、できないの。それがそのうちわかっちゃうの。絶対わかっちゃうのにどうしてそういうこと言うんだろ。
 うまく言えないんだけど、自分の居場所について、自分にふさわしくない、って言う人はたいていだめだよ、と私はこたえた。彼はね、前の職場についてそういう意味のことをぽろっと言ったんだ、私それを聞いて、気にせずにいられなかった、負の意味で。
 黙って水平線を見ていた藤井が、板張りの桟橋の側に向きなおった。私たちは三人で大きな港に来て、外国にゆく船の出るところを見ていた。
 私の会社にもいる、と藤井は言った。降格されても辞めないけどね。彼の前のポジションにいま私が入ってるんだけど、まあ、ひどいよ。自分がすべき作業をぜんぶばかにしてる。自分はもっとたいそうなことをすべきだって思ってる。でも目の前の作業を愚直に誠実にやれない人間にほかの何ができるというの。
 私と美濃部は手をたたき、かっこいい、と囃した。藤井は私たちへのサービスとして傲然と顎を上げ、目の前の仕事に命を賭けろ、と宣言した。私と美濃部の拍手は桟橋を滑り、強く光る海に落ちた。
 仕事できないの苦しくないのかな、と美濃部が言う。私はうなずく。仕事で失敗したら忘れられないよね、私、もうね、思い出すだけで、うわああああ!ってなる。土下座したい。
 サヤカほんとに土下座しそう、と美濃部が言い、その土下座は無駄土下座だよ、サヤカの会社の人ここにいないよ、と止めた。私はかろうじて頷き、わかってる、と言った。ほんとうはまだ土下座したかった。
 彼らは、失敗したと思っていないんだよ。藤井がそう言って、私と美濃部は彼女の顔を見た。つまらなそうな顔をしていた。
 彼らは本気で自分は人はよりずっとできると思ってる。叱責は理不尽な嵐だと思ってる。でなければあの態度の説明がつかない。
 私はその発言に衝撃を受け、そうして、いやなことを思いつく。うん、彼らは、そう思ってるんだろうね、でも、上司に叱られたら、彼らは謝る、そうして、彼らには、奇妙な焦りというか、激しいなにかがあるよね?
 うちの会社の人はそんな感じする、なんだか不安定な感じする。美濃部がそう言い、私は仮説を口にする。
 彼らは二重写しの世界を生きているんだと思う、彼らの一部は、彼らの状態をわかっている、彼らは、認識できないんじゃない、リアルな認識の上に、もうひとつ、彼らの望む認識を被せている。でも、下のレイヤは消えない、そして彼らを、いつも脅かしている。あの人たちは、そういう状態なんだと思う。
 藤井が少し長い時間私を眺めて、訊く。生々しいね。 どこからそういう発想が出てくる?私はこたえる。私も、彼らとは別の領域で、二重写しの世界にいたことがあるから、そう思うんだよ。
 真夏の都市の桟橋の上の強い強い逆光がふたりの古い友人とその向こうの世界を脆い仮定のレイヤのように写した。