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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたでさえも遠ざけて

 包まずにタグだけ切ってもらって首に巻いた新しいストールを見せびらかして私は言う。このビーズ刺繍すごくいい、私に似合うと思う。彼女は携帯電話に目を落としたまま可愛い可愛いと私をあしらい、倦怠期の彼氏かと私は言う。
 私たちは買い物を済ませて何年か前にできた都心の建物を歩いていた。彼女は私を振りかえって苦笑して言う。うれしそうだね、新しいの買うとうれしいものね、新しいもの自体に、私は少し飽きたけれど。

 彼女と私は肉を焼く。私たちは買い物のあと、どうしてか決まって健康的とは言いがたい料理を選び、無遠慮にビールを飲む。花のにおいの白ビール、キャラメルみたいな黒ビール、やさしくありふれた金のビール。
 けれども今日は彼女のグラスが空かない。私は自分の追加を注文して尋ねる。飲まないの。彼女は少し笑って、年だねと言う。このところあまり飲めない。気分が悪くなる。
 私はあなたのビール時代の証人になるよと私は言う。あんな苦いのどうして飲むのと訊いた十代のころと、ごくごく飲んでた二十代のころと、もうあんまり飲めないと言う三十代。
 マキノだって人のこと言えないでしょうと彼女は笑う。カルビは要らないなんて、だらしない。ロースがいちばんおいしいなんてまるっきり年寄りじゃないの。

 私たちはひとしきりちかごろの話をして何度か笑いあう。それから彼女は尋ねる。コズエさんが東京に帰ってくるから集まろうって話があるんだけど五日の昼は空いてる。あいにく、と私は答える。
 いつも幹事役を任せていて悪いねと私は言う。今回は私じゃないと彼女は言う。私はもう高校の仲間の幹事はやらない。そうかあと私は言う。藤井は人間手帳だから私たちずいぶん楽させてもらったよね。
 人間手帳というのは彼女の高校時代のあだ名のひとつだ。彼女は何でも覚えていて、受験生だった私たちの妬みを一身に集めた。私はなんでも忘れてしまうのでことのほか彼女をうらやみ、その頭ちょうだいとねだった。細い髪に指を挿して中身を抜きとるふりをすると彼女は私と一緒になってきゃあきゃあ騒いでから不意にそれを大人びた笑いかたに変形させて、そんなにいいもんじゃないよと言った。私たちは制服を着ていた。紺のブレザーには金色の校章、ライトグレイのミニスカートはヘリンボーンのボックスプリーツ。
 
 私がそのことを思い出してぼんやりしていると彼女は歌うように言う。私はねちかごろアシスタントの女の子にひどく苛ついてね、去年の今ごろは前の上司についてよく愚痴をこぼしてたよね。だってそれにはそれなりの理由があるでしょうと私はこたえる。
 マキノ少し前に感情の出所についての話をしたでしょうと彼女は言う。私は首をかしげる。彼女はその話を再現してみせる。感情には二種類ある、ひとつは対象があって出てくる感情、原因は対象にある、対象が消えれば消える、もうひとつは感情が先に生まれる、対象は、そのはけ口として選ばれる。
 私の苛々はどうも後者じゃないかと思うんだと彼女は言う。私はこの何年か高校の友だちと集まってもなんだか苛ついてしまう、みんなが変わったからかと思っていた、でもそうじゃない、原因は私にあるんじゃないかなって、思う。
 私は黙る。彼女はほほえむ。細い髪が彼女の輪郭をいちばんきれいに見せる曲線を描いている。私がかきまわした髪とはちがう。私は唐突にそのことに気づいて狼狽する。私たちのあいだでは用なしになった炭火がゆっくりと燃えつきている。高校の友だちに、と彼女が言ったことを私はようやく実感する。私は彼女の高校の友だちなのだった。

 私たちはみんな新しかった。彼女はそう言って名残のようなグラスをかたちだけ傾ける。みんなぴかぴかで、だから隅々までおたがいを観たかった。けれども私たちはもう新しくない。新しいものは探せばまだある、でも新しいもの自体に飽いてしまった。それが一時的なことなのか、不可逆的に進む老いにまつわる現象のひとつなのか、私にはわからない。けれど対象によらない感情ばかりがからだに溜まるのはそのせいじゃないかと思う。私が、世界に飽いているから。私の世界はもう新しくないから。そうして私はこれから自分の苛立ちに倦んでいろいろなことを遠ざけるような気がしてならない。

 倦怠期の彼氏か。私はようやくそう言う。彼女はひっそりとほほえむ。そうだね、もしかしたら、十五のころから不可欠だったあなたでさえも遠ざけて、私は老いてゆくのかもしれない。