傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

魔にもさされない

電話を取ると、なんかおもしろい話ないと彼は訊く。どういうのがいい、と私は聞きかえす。悲劇的なやつがいいと彼は言う。誰かの人生がだめになるようなやつ。
だめになる話の在庫はないな、劇的に幸せになる話はどう。私がこたえるとそんなの要らないと彼は言う。幸せはだめなのと私は訊く。あなたそんな根性悪かったっけ。悪いよと彼は言う。センセイ俺さあ退屈でしょうがないんだよ、退屈だと性格がどんどん悪くなる。彼は私をセンセイと呼ぶ。
保険って、収入右肩上がりを想定してプラン立てるんだ、それをこないだ見直した。右肩上がりの角度をもっと鋭角に。センセイみたいな野良には意味わかんないだろうけど。彼はそう言い、うんよくわかんない、でもなんかすごいっぽい、と私はこたえる。さすがだねえ。エリートはちがうねえ。
俺それ言われんの大好きだけどそこまでがんばって言われると無理すんなって思う、死ぬほど興味ないだろそういうの、とにかく保険の話な。彼はそのように軌道を修正する。
大学の先輩が先週新聞に載ったんだ。彼はそう言った。なんかいいことしたのと訊くとフジョボーコーと彼は吐き捨てた。被害者は女子高生だって。ばかか。しかも新婚で。
それで私に悲劇をリクエストしたのと私は訊く。手持ちの話よりもっと悲惨な話を聞くために?ちがうと彼はこたえる。そうかも、でも、たぶんちがう、俺は、その話を聞いて、俺がそうすることは絶対ないと思った、それが、すごく、いやだった。
彼は言う。なんかやらかしたとき魔がさしたとか言うだろ、でもそれはそいつにそうしたいっていう気持ちがあって、ほんの少しでもあって、それで、なんかの間違いで、実際にやっちゃうってことだろ。
私は少し考える。そうだね、どこにもそうしたい気持ちがなければ、たぶん魔にさされることはないね。だろ、で、俺には、ない、と彼は言う。だって、女なんて、みんな同じようなもんがついてるんだから、若くてかわいくてばかじゃなければそれでいいじゃないか、なんで誰かひとりに無理強いしなきゃいけない。怖がらせたらかわいそうだし怖がられたらプライド傷つくしいいことひとつもない。
あなたは安全だよと私はこたえる。あなたには理不尽な、制御できない欲望がないから、安全だよ。あなたが女に飢えていたとしても、あなたはたとえば私を傷つけない。美人じゃないし、若くないし、なんかかわいそうだし、って、合理的な判断をくだす。
だろ、と彼は繰りかえす。俺は絶対そう判断する。女に飢えるってなんだよ、そんなもん飢えやしねえよ、食い物じゃあるまいし。だから俺はあの保険のラインの描く通りの人生をきっと送る、俺は、踏み外さない、傷つけたい相手も殺したい相手もいない。
なあ俺は退屈だよ、センセイはいいよな、明日をも知れないじゃん、もちろんセンセイが困ったら誰かが助ける、でもその誰かは「助けてくれそうな人」であって、「助ける義務がある人」じゃない。センセイはろくな保険に入れない。センセイは無力で保障されてない。毎日たのしそうだ。
彼は黙り、私はため息をつく。そうして言う。あなたの問題は明日が知れすぎて生きてる実感がないことじゃなくて、明日をもしれない状態を呼びかねない理不尽な欲望を一グラムも持ってないことだよ。あなたは魔にさされたいんじゃなくて魔にもさされないことがさみしいんだよ。あなたには唯一というものがない。あなたは余儀ない感情を知らない。だからさみしいの。
彼は黙る。私は続ける。そんなもの外部に原因を求めたってしょうがない、自分で言ってたじゃない、下地になる気持ちがなければ魔がさすこともないって。じゃあ死ぬまでこんなか、と彼はつぶやく。
彼がかわいそうなので、方法はありますとも、と私は言う。なになにと彼は訊く。愛ですよと私はこたえる。なんだつまんねーな、センセイはなんかっつったら「恋でもしとけ」って、それ飽きたよ。
その路線はもう無理っぽい、と私は言う。いいから彼女に子ども生んでもらいな。女じゃなきゃ子どもってどんだけ安直だよと彼は笑う。だってほかに残ってないもんと私はこたえる。子どもはいいよ、なにしろ自分に似てたりするからね、あなたみたいな人間でも夢中になるかもよ。理不尽に大事に大事にするかもよ。
生んだことないくせにと彼は笑い、だって制作相手がいないもんと私はこたえる。育てながら働ける環境もないし、育てるの助けてくれる人もいないし、だいいち、私自身に、そんな気力がない。センセイまじなんもねーなと彼は言って、また笑う。ないともとこたえて、私も笑う。

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