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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

午前二時の牛丼屋で生き別れの姉にビールを奢った話

彼がいつものように深夜の牛丼屋のカウンタを拭いていると、女がひとり入ってきた。客はほかにいなかった。彼女は牛丼と瓶ビールを注文し、彼はその顔を見て凍りついた。彼女は目を見開き、それからにっこりと笑って、彼の名を呼んだ。ここで働いてたの、びっくりした、でも元気そうねえ、よかった。
彼は狼狽のあまり思考を停止し、職業上の動きを自動的に再現して、彼女の注文したものを出した。彼女は間違いなく彼の姉の顔をして、彼の姉の声をしていた。最後に声を聞いてから五年分の年月を、しっかりと身にまとっているように見えた。そうして彼には姉がひとりで深夜の牛丼屋に入るとはどうしても思えなかった。
だから彼の前には知らない女がいて、彼の姉がいて、彼にはそれが同一人物であることが、どうしても理解できなかった。彼女はうれしそうにビール瓶をかたむけた。ビール!嘘だ、と彼は思う。
彼の姉は高校生になってもこっそり酒を飲んだりなんか絶対にしなかった。父親や親戚に酌をするときに勧められると困った顔をして黙っていた。へたくそと父親が言うとごめんなさいと言って笑っていた。ごめんなさい、おとうさん。すると父親も笑った。彼の育った平和な家庭のありふれた光景。
彼はうつむき、顔を上げようとこころみて、それに失敗した。彼はいつもそれに失敗する。店員さんほかにいないのと彼女は訊く。今は、と彼はつぶやく。今は俺ひとり。昼はもっといる。
牛丼屋さんかあと彼女は言う。いいねえ。おねえちゃん平日はほとんどごはん作らないからよくお世話になるの。夜中までがんばってて、えらいね。
彼女はそう言って気持ちよさそうにグラスをあけ、続きを注ぐ。彼は自分の仕事がフルタイムではなく、ましてここは彼の店などではないことを、彼女に知られたくなかった。彼は五年前に大学を退学し、生家を出て、友人たちと住居をシェアし、アルバイトで生計を立てていた。彼はすでに二十八になっていた。
彼の姉は十八で東京の家を出て京都の大学に入った。学費は出してやろうと彼らの父親は言った。ありがとうございますと姉は言った。父親は寛大な自分に満足したように笑い、うちは教育の費用は惜しまないからなと言った。
母親と分担しておそろしく清潔な家と手のこんだ料理を提供しつづけていた姉は、公立高校の学費のほかに何ひとつ要求したことのない姉は、父親と彼の快適な食卓のために食事のあいだ座ったままでいたためしがなかった姉は、ありがとうございますと繰りかえした。
 彼はその笑顔を見て、頭に針を刺されたように理解した。姉は父を憎んでいる。そして彼を憎んでいる。彼はなにもかもをふんだんに与えられ、姉はそうではなかった。それは彼らの生家では当たり前のことだった。彼はそれについて一度も疑問を持たなかった。
だから、と中学生の彼は思った。だから憎まれている。気が遠くなるほどに、この人は僕を憎んでいる。
彼女はおいしいねえおいしいねえとにこにこ笑いながら彼の出した牛丼を食べている。彼はむかしむかしの彼の家の夕食で幾度となく出てきたオニオングラタンスープを思い出す。途方もない時間をかけてそれを作っていた姉について考える。勉強ができることを黙殺されていた、「気が利く」ことと家事が得手なことだけを褒められていた、いま見るとごく普通の顔だちなのに彼の家では「かわいそうなくらいブス」とされていた、彼の姉について。
それじゃおねえちゃん行くね、今日はびっくりしたけどすごくうれしかったよ。彼女はそう言って財布を取りだし、彼は反射的に右手を横に振る。そうしてようやく言う。いらない、俺が出しとく。彼女は彼の見たことのない笑いかたをして、言った。ありがとう、じゃあ奢ってもらうね。今度なんかお返しするからね。
それで、と私はたずねた。安心したと彼女は繰りかえした。彼女は両親から弟のアルバイト先を聞かされ(両親は二度と戻らないと宣言して家を出た息子の行方を調べ、それを把握していた)、偶然を装って様子を見に行ったのだった。
親のためじゃないのよと彼女は言った。あのね私ね、弟がまだ私を憎んでるんじゃないかと思ってたの。両親の理不尽な期待で潰されたのはあの子で、私は十八までしか我慢しないで好き勝手してきた、そのことがいつもつらかった。でもあの子きっと私のこと許してくれたんだと思う、あの子はね昔からやさしい子なの、あの子、私にビール奢ってくれたの、牛丼も食べさせてくれたの、とってもおいしかった。