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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

正義アディクション

みんな正義が好き、と私は言う。とくに今は、大勢の人が正義と善を成したいと思ってるみたいに見える。一ヶ月後でなく、半年後でなく、今すぐ何かしたい、私もそう思うことがあるの、どうしてかな。
コントロールしたいからだねと彼はこたえる。状況は制御可能であると、自分の関与が有効であると思いたい。だから僕らはストーリィをつくる。美しい日本人たちがその美しさをいかんなく発揮し、善意が悲劇を救い、自分がその一員であるというストーリィ。
私は彼を見る。もちろんそれは事実だ、と彼は続ける。でもほんの一部、そのさらに一側面だ。色見本から真紅だけを取りだして画面を塗りつぶしてこれが色というものだと宣言するようなおこないだね。
ときにはそれも必要なんじゃないかなと私は言う。不安でいたたまれないときにひとつの色だけを取りだして視界を塗りつぶすのは、必要な非常手段といえるんじゃないかな。
麻酔薬は麻酔医しか使えないからいいんだ、と彼はこたえる。でもこの麻薬はみんなが使える。売人はいかにも清潔で健康そうだ。僕はそれがいやだ。ヤク中はヤク中らしくげっそりしてろと思う。正義は麻薬ですよ、サヤカさん。
彼はある種のものごとを伝えたいときにだけ私の名に敬称をつけ、敬語をつかう。照れているのだろうと思う。職場の若い人を見てるとつくづくそう思う、と彼は言う。若い人って、と私は笑う。あなた私とそんなに変わらないじゃないの。まだ若造だよ。
年寄りぶりたい年頃なんだと彼は言ってはずかしそうにほほえみ、ごく短い時間のうちにそれを消去して、人の首を切りつづけていると、と言う。彼は大きな企業で人員整理を担当している。首切り職人だよといつか言っていた。働かない人間の首を切るだけじゃない、そんなだったらどんなにか楽だろう、僕らはきちんと働いてきた人々を出向させる、降格させる、ときには解雇する。僕らが僕らの業務をアルミニウムとガラスでできたマシンみたいにクールに遂行していると思う?
私は首を横に振る。そう、残念ながら僕らもまた脆弱で心やさしい人間だ、と彼は言う。だから静脈に正義を注入する。この会社が継続されないとさらに多くの人が職を失う、だから自分たちのおこないは善であり正義であると信じる。そしてそれに酔う。
それはだからしかたないでしょう、と私は言う。あなたたちがアルミニウムのお面を投げ捨ててしまったらあなたの会社はいずれ潰れてしまうんでしょう。
もしも正義が麻酔薬ならそのせりふが正解だ、と彼は言う。でも正義は麻酔薬じゃない。僕らは遠からず酔いそのものを求めるようになる。なぜって酔うのは気持ちがいいからね。
彼は手のなかの小さいガラスとそのなかのひどくうつくしい香りの液体を揺らす。もしもみんなが酒を飲むのは良いことだって褒めちぎってこんなものをどんどん運んできたら僕は死ぬまで酔っぱらってるね。だって気持ちがいいからさ。
首切り行為そのものを求めるようになるということ、と私はたずねる。そうだよと彼はこたえる。正義と影響力に依存する。地道な計算や面談や会議やレポートづくり、そんなグラスに入った薬物を、昼となく夜となく飲みほして酔っぱらう。
彼は話を続ける。もちろん首切りと「美しい日本人の私」はちがう。ぜんぜんちがう。でもある種の麻薬が蔓延する職場に日々稼ぎに行く人間は麻薬全般に鼻が利くようになるんだ。
私たちどうしたらいいのかなと私は尋ねる。そんなのみんな知ってると彼は言う。僕だって知ってる。酔っぱらいがすべきことはただひとつ、しらふになることだよ。たとえばここに恋に落ちた人がいるとしよう。世界には自分と恋人しかいないと思っているとしよう。もちろん世界に恋に落ちたふたりしかいない瞬間があることはある種の真実だ。でも遠からずその人は我にかえって、世界にはほかにもうじゃうじゃ人がいることを思い出す。でなければいずれ破綻して強制的に思い知らされる。
だからといって恋が無価値になるわけではないものねと私は言う。そうだよと彼はほほえむ。恋はいいものです。機会があるならばんばんやればいい。子どもだってできるかもしれない。
ストーキングや公然わいせつに結びつかなければ、と私は言う。のろけ話ばかりして友だちをなくすのも避けたほうがいいねと彼は言う。私は時計を見て立ちあがる。気をつけてと彼は言う。気をつけてと私も言う。飲みすぎないように、適度に切り上げて水を飲んで、明日に残さないように。