傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

おなかじゃんけん

そういえば弟さんって今なにしてるんだっけ。何気なく訊いたら、彼女はわずかに眉をこわばらせて、それからほほえみ、働いてる、たぶん、とこたえた。たぶん?
この五年近く、ほとんど話をしていないの。彼女はそう続けて私を困惑させる。五年前なら、彼女は二十七歳だ。きょうだいでけんかする年齢でもない。でもしたの、と彼女は言った。弟とけんかしたの、そして弟はもう私を許さない。
五年前、彼女の弟は二十三で、二浪して入った大学をやめたところだった。両親は途方に暮れて、すでに長く家を離れて暮らしていた彼女を呼んだ。長女、次女、三女、長男という構成のきょうだいで、弟は小さいころから長姉である彼女になついていた。
彼女の弟は両親の期待にそえないことを気に病むあまり、かえって両親の望む方向に注力することができない。彼女にはそのことがよくわかっていた。彼女の弟は勉強が好きな子どもではなかった。けれども両親は弟の大学進学を強く望んだ。弟はどうにかそれを果たした。両親はその大学に不満を持っていた。
弟は姉の訪問を許可しなかった。彼女もあきらめなかった。それで彼らは電話で話をした。大学に行くよりほかになにかしたいことがある、と彼女が訊いても、弟は何も言わなかった。とにかく辞めて働くとだけ言った。その声は彼女の知っている弟のようではなかった。
ごめんねと彼女は言った。おねえちゃんが男だったらよかった。そしたらあの人たち、満足してあんたには好きなことさせてくれたのに。
彼女の両親は名のある大学に強い執着を持っていた。彼女は子どもの時分から学校の成績がよく、両親の好む大学に入った。けれども両親はやはり満足しなかった。彼女の両親は知恵のついた女の子を好きではなかった。
弟は醒めた声で、ばかじゃねえ、と言った。あんたが男だったら俺は生まれてねえよ。彼女はしばらくその意味がわからなかった。電話の向こうで弟が笑った。もっと年をとった男のような声だった。なんだ知らなかったのか、ほんとにばかだな。あんたらみんなはずれくじじゃないか。
私は彼女の語りを止め、どういうことと訊く。男の子が生まれるまで生んだってこと、と彼女は言う。私はばかだった、私たちの両親の態度は露骨にそれを示していたのに、何もかもにそれはあらわれていたのに、気づかないでいた。私が男だったらとだけ思っていた。弟はずっと、そのことを、気にしていたにちがいないのに。
あの子はやさしい子なの、と彼女は言った。子どものころ、私はときどき晩ご飯が食べられなくなった。うちの雰囲気はあんまりよくなかったから。でも食べないで陰気な顔をしていると余計にいらいらさせてしまう。だから弟は私のおなかの具合を知りたがった。
おねえちゃんのおなかがグッドならグー。まあまあならチョキ、だめならパー。彼女は左手でそのかたちをつくってみせる。そうしようって、あの子は言った。知ったからってあの子になにができるわけじゃないけど、でもそのサインはたしかに私を救っていた。
あの子は、おねえちゃんたちがはずれくじだって知って平気でいられるような子じゃない。どんなにかそれを気にしていたかわからない。立派なあたりくじにならなきゃいけなかったのに、どうしてもなれなかったって、きっと思っていた。それなのに私は自分が男ならよかったなんて言った。私は弟のほしい能力をはじめから持っていて、それでそんなこと言った。なんて傲慢だったのかと思う。
だから私は会社の後輩には甘いの、と彼女はほほえむ。弟や妹になんにもしてあげられなかったから。とくに四つ年下の男の子には甘いの。
でも彼らはあなたの弟じゃないでしょう、と私は言う。だいいち二十八なんてとっくに大人だよ、あなたの弟だって大人なんだから、もう一度話をしてみることは、できないかな。
彼女はひっそりと笑ってこたえる。そうね、世界中の二十八歳を集めても、そこに私の小さい弟はいない。彼らは大人で、私なんかいなくてもいい。そんなことわかってるのよ、でも取り返しがつかないないことの、その取り返しのつかなさを、ときどき忘れたくなるの。
ごめんね、わかってないのに、あさはかなこと言った。私がそう言うと彼女は顔の横で人差し指と中指を立ててみせた。チョキ、と私は言う。彼女はそのサインを解説する。そう、ピースだから、平和、まずまずだいじょうぶ、っていう意味。