傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

河川敷に捨てる

彼女はアウトドア用の折りたたみ椅子に座っていた。私は彼女に会釈してコンクリートブロックに腰をおろした。そこは河川敷の中でも高い確率で複数の猫と遭遇できる場所だった。私はそこでさわらせてくれる猫をさわり、さわらせてくれない猫をながめてぼんやりする。その結果、気の進まない会食をとりやめたこともある。
私は直前のキャンセルはすべきでないと考えており、気が進まなくても約束があれば行った。断るのはそのあとだった。けれどそのときはつくづくいやになってしまったのだ。その人のメールからは一度会っただけの私に対するよくわからない幻想が手脂みたいににじみ出ていた。
指先の動きで猫の気を引いて、病気になってもいいかなと私はたずねた。友だちがね、そんなの病気になっちゃえばいいんだって言うの、いいかな。猫は私に何の関心も示さなかった。私はなんだか安心して、申し訳ありません、風邪をひいてしまったようです、と書き送った。
寒いわねえと彼女は言った。彼女はその世代の人にしては長身の、しっかりした骨格が目に見えるような痩せた老女で、七十歳をいくらか超えたくらいに思われた。この猫スポットでときどき顔をあわせる人だ。
私はからだの角度を変え、世間話を受容する姿勢を示した。彼女は持ち手だけ色のちがう皮のトートバッグからプラスティックバッグを取りだし、その中の密閉容器を取りだし、さらにそこから乾いた猫の餌を出した。彼女がそれを足下に置くと、待っていた猫がゆったりとそれを食べた。
餌をあげないのねと彼女は言った。たまに来るだけなので、と私はこたえた。私が責任をとれる猫ではないので、なでるだけの簡潔な関係でいようと思っています。いい心がけだこと、と彼女は言った。
私はこの猫にある程度の責任を持っているわと彼女は続けた。同じ猫に同じものを同じだけやっているの。それはいいですねと私はこたえた。良い関係です。
かわいがるものがほしくてねと彼女は言う。年をとらなくてもかわいがるものは必要だけれど、年をとるとなにかを愛する方法が減るのよ、愛そのものが減る人もいるけど私のは減らないのね、どんどん出ちゃうのよ、愛が。だから猫をかまうの。
方法が減る、と私は繰りかえす。減るわよと彼女も繰りかえす。だって働かないのよ老人は。たいていの仕事には誰かに対する奉仕という側面があって、そして奉仕は愛の方法だわ。
私はなんとなくうなずく。それにねえと彼女は続ける。子どもも大きくなっちゃうし、ごはん作ってあげる人がいないのよ、旦那は死んでるし。死んでなくったって、年とったらあなた、キッスもないのが普通ですよ。キッス、と私は思う。いいことばだ。
つまり愛の方法が限られる、そして愛をもてあます、と私はまとめる。彼女は皺を劇的に動かしてほほえむ。そう、だから寛大な猫たちに愛を引きわたすの、火曜の朝に燃えるごみを出すように。
それはお年寄りに限ったことではないですよねと私は訊いてみる。私は先だって他人の好意を気持ち悪いなあと思いました。そうすると自分の好意も気持ち悪く見えてきます。人に見せずに猫に引きとってもらったほうがいいんじゃないかと思います。うっかり誰かの手をとってしまったら、その夜はひとりで反省会ひらきます。
愛は気持ち悪いものよと彼女はこたえる。俗人の愛は相手の幸福に関与したいという欲望なのだから、気持ち悪いのはしかたないわ、だって、どんなかたちであれ、踏みこみたいってことだもの、ねえ。
関与への欲望は抜けないでしょうかと私はたずねる。遠くから愛でるだけで満足できないものでしょうか。彼女はまた笑う。がまんはできても欲しないのは無理だと思うわ、ナイチンゲールだって関与したいから戦争に行ったんでしょうよ。
看護師さんですかと尋ねると彼女は気持ちよさそうにうなずいた。関与したいと思いたくない相手でもいらっしゃるの、あなた。そんな人ばかりですと私はこたえる。みんな立派で私の関与などなくても幸福です、そんな人々に対してうまいこと関与してやろうとつけいる隙をねらっている自分の身の置きどころがない。
ご自分の愛が気持ち悪いことが許せないのねと彼女は言う。若いから。若くないですと私は苦笑する。私から見たらあなたと高校生のちがいは誤差の範囲内だわと彼女はこたえる。私は破顔して抗議する。ずるいです、そんな、年を笠にきて、ひとを煙に巻いて。
帰りますと私は言う。からだが冷えました。地べたに座るからよと彼女は言った。今度来て私がいなかったらこの椅子使いなさいな、そこのね、ボート屋さんの軒下にいつも置かせてもらってるから。