傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

水かきを切る

ほら、と掌が差し出される。きれいな骨のかたちがわかる白い指が奇妙な動きを見せて、止まる。私はなぜだか反射的にそこから目を逸らし、左側に座る彼女の顔を見る。私はそこにも長いこと焦点を置くことができず(その掌はまだ私の正面に提示されたままで、視界の右側にしっかりと存在している)、視界の中心をふたたび掌に戻そうとする。そうしたとたん、その掌は私の目の前から消える。
彼女の隣の席に新しいお客が入り、彼女は両手を使って私のほうに椅子を寄せる。私はいちばん端にいて席を動かせない。王手、とぼんやり思う。カウンタ席って隣の人につかまえられたみたいな気になるから、不穏で好きだ。それに横顔は、正面から見るときより情報量が減っているのがいい。うつくしい人のうつくしさや鋭い人の鋭さが緩和されて、ずっと見ていても疲れない。
私は片手で髪を押さえて升の中の小さいグラスにくちびるをつけ、それから彼女を見て、むしった畳鰯を見て、グラスを升から引きだし、深呼吸をして、もう一回見せて、と言った。
彼女は気前よく掌を差しだし、指をぐっと広げる。私はそれがよく見えるように角度を変える。私の皮膚より寒色寄りなのに、触ると私の指のほうが冷たい。私はそれをしげしげと眺め、それから、どうもありがとう、と言った。
彼女は私から戻ってきた右手を使って箸を動かし、気持ち悪いでしょ、と言う。日常的な動きじゃないから、少しは、と私はこたえる。彼女はある年齢まで本格的にピアノを弾いていて、だから指の関節の可動範囲がとても広いというので、見せてもらったのだった。
この気持ち悪さは楽器のためになんでもする人間の気持ち悪さだねと彼女は言う。たかが楽器なのに、音が出るというだけのものなのに、まるでこの世の一大事みたいに思い詰めて毎晩毎晩お風呂のふちに、こう、手を置いて、広げるの、痛くなるまで広げて止める、それを八回、指の境界線の全部にして、それで、こうなった。
彼女はそれをカウンタの木目の上で実演してみせ、私はため息をついて、そっと訊いてみる。ねえ、もっと広げたくって指のあいだの水かきを切るピアニストがいたというのはほんとう。彼女も内緒話の声になってこたえる。私も中学生のころその話を聞いてね、したくてしたくて、先生に、ピアノの先生に訊いたの、そしたら、そんなのは嘘だって言われた。切ってもいいことないんだって。私がっかりしちゃった。
でも先生は、そう思うのはなんだかいいねって言ってた。手を切ってもっと弾けるようになるなら切るというのは、とてもいいと思う、って。それは上手くなりたいという健全な気持ちがそうでない領域に足を踏み入れる瞬間で、個人的にその瞬間を愛好する、って。へんな先生でしょう。
その先生、男の人、と私は訊いた。あらあ、わかった、と彼女は言って、くすくす笑った。私はあきれて、そりゃあわかるよとこたえた。いやらしい。いやらしいなんて、そんな、先生とは何もしてないのに、と彼女は言い、私はさらにあきれた。そのほうがよほどいやらしい。
私いまの仕事でもたまに水かきを切ったみたいな人、見つける、と彼女は言う。彼女は今、ピアニストではなくて、会社員をしている。親指と人差し指のあいだだけをすっぱり切ったような人もいるし、ぜんぶの指のあいだをえぐり取ってしまったような人もいる。私、その人たちのこと、嫌いじゃないな。彼女がそう言うので私は少し苛ついて反論する。でもだからといって切った人が切っていない人よりいい仕事をするとは限らないでしょう。
彼女は横顔で笑う。サヤカはほんとにそういう人が嫌いだね。私の指だって、柔軟体操しただけなのに、気持ち悪いんでしょう。見ているだけで緊張するくらい。そうじゃないよと私はこたえる。なんだか少し怖いだけだよ、嫌いなんじゃない、むしろ好きなんだと思う。
彼女は首をかしげ、例のきれいな、不健全な指で私の升をつかんで勝手に味見をし、私に銘柄を尋ねてから、切っちゃえばいいじゃない、と言った。見るのが怖くなるほどうらやましいなら、サヤカも切ればいいじゃないの。切りたくなるようなことがないと私はこたえる。ほどほどに好きな分野の仕事をして、わりあい楽しい趣味があって、それで私は幸せだから、水かきを切る必要はないの。あらそう、と彼女は言って眉を上げ、それから可笑しそうに目を逸らした。