傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ヒーローをみつけた日

途中まで友だちが車で送ってくれて、あとは歩いてきた、と彼は言った。彼女がどうやって来たのと訊いたからだけれど、彼らのどちらもそんなことに興味はなかった。でも彼らは口を利く必要があったし、それによって感情をやりとりする必要があった。彼女は十八で、地震が来るまで受験のことしか考えていなかった。それからいくらも経っていなくて、彼女はまだ興味というのがどういうものか、うまく思い出すことができなかった。
感謝しなくてはいけないと彼女は思う。この従兄は京都に進学していて地震に遭わずに済んだのにわざわざやって来て、自分の両親だけでなく近所の親戚の無事(あるいは無事でなさ)も確かめて助けてくれて、今から帰ってしまうのだから、と思う。
彼は彼女に封筒を手渡す。お金、と彼は言う。少しだけど。なにしろ現金はあったほうがいい。彼女がうまく感謝できずにいると、気にしなくていいと彼は言った。僕が予備校で適当に荒稼ぎして、友だちと酔っぱらって騒いだり女の子の気を引いたりするのに遣っちゃうはずだったお金だよ、だからぜんぜんたいしたものじゃないんだ。それからふとはにかんで、そうじゃないか、うん、そういうんじゃないね、よくわからないんだよね、と言った。
よくわからないと彼女はこたえた。でもよくわからないことがよくわかるね。なんとなく、と彼は言った。どうして来たのと彼女は訊いた。地震にせっかく遭わなかったのに。
彼はしばらく黙っていた。それから口をひらいた。うまく言えないけど、僕は両親を助けに来たんじゃないんだ。僕は誰かを助けに来たんじゃない、僕はそうしないわけにいかなかった。僕は誰かを助けたいと思うようなやさしい人間じゃないし、人の役に立つために自分が苦痛を得てもかまわないと思うような立派な人間じゃない。そういうんじゃなくて。
僕の家はねと彼は続けた。一階がだめになった、一階には一昨年まで僕が使っていた部屋があった。そこにはまだ僕のものが残っていて、僕はそこに泊まった。ついこのあいだ。成人式があったから。今、そこにはもうなにもない。僕が吸っていた空気すらない。いろんなものが焼けたにおいにとってかわられた。僕はそこにいたんだ、もちろん地震のときは京都にいた、そこからここに来た、車が通れないところを長いこと歩いた、それだけの距離が僕と地震のあいだにはあった、それが事実だけど、でも、僕はあの部屋にもいたんだ、地震のときに。
うまく言えないと彼は繰りかえした。そこには僕の幽霊がいて、痛かったりかなしかったり不便だったり寒かったり、してる。その幽霊は僕にしか見えない。だから誰も助けてくれない。そんなのあんまりじゃないか。
だから来たんだと彼はつぶやいた。ごめんね、わからないよね。彼女は長いことためらってから、わかる、とこたえた。この人は地震に遭ったんだと彼女は思った。地震に遭って助けてほしかったんだと思った。彼女は彼女を助けてくれたたくさんの人を思った。もしかすると彼らも彼らの幽霊を助けていたのかもしれなかった。幽霊は他人を通してしか助けられないのかもしれなかった。
それで、と私は訊く。それでこの話はこれでおしまい、と彼女はこたえた。その後も被災地は大変だったけど、私はどうにか受験をすませて、あとはご存じのとおり。その従兄はどうなったのと私は質問を重ねる。そのまま順当に年とってるよと彼女はこたえた。親戚の集まりに来て無難なこと言って笑ったりしてる。ふたりめの子が歩けるようになったって年賀状に書いてあった。
ヒーローなのにと私は言う。ピンチにあらわれたヒーローなんだから、もうちょっとそれらしい展開はないの、そんな、仕事して結婚して子どもを育てています、おしまい。とかじゃなくてさあ。それじゃふつうの幸せな人だよ。
彼女は笑って、あのとき私のみつけたヒーローは従兄じゃないのよとこたえた。従兄はもちろん助けてくれたけど、でも、私がみつけたのはね、従兄の言う「幽霊」が見える人が人を助けられるんだってこと。立派な理念とかが人を助けることもあるんでしょう、でも私は、他人のなかに自分の幽霊を見る力がだいじなんだって思うの、私は立派な人間じゃないから、立派さで人を救うことはできない、でも私はどこかで泣いている私の幽霊を見捨てる人間にはならないって決めた。私は誰かのヒーローになるんだって思った。それが私の今日という日。