傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

監獄の夜

バスルームが廃墟っぽいです。彼女はまっすぐに私を見て言う。たしかにバスタオルホルダが壊れたままだし、ペーパーホルダも片側が割れているし、罅の入った排水口のふたも交換していない。
ごめんね、なんだか、面倒で、ふだん誰も出入りしないから取り繕う動機もなくて、とこたえると、彼女は首を横に振り、終電なくなって泊まる人に取り繕う必要はないです、先輩が先輩自身のために取り繕うべきです、と言った。なんか監獄みたいです、この部屋。
私は自室を見渡して、そうかな、と思う。ものがないことはたしかだけど、不衛生ではないよ、と言う。彼女はメイクを落とした幼げな顔で、多くの監獄は清潔です、と言った。ここは殺風景です、だってなんにもないです。
この何年かで減ったんだよと私は説明する。テレビが壊れて、オーディオが壊れて、そしたら、なくても問題なくって、置いてた台もいらなくなって、本は読んだら処分するし、PCはノートだし、ベッドとテーブルとクッション以外はクローゼットに入っちゃって、だから。
壊れたら直すんですと彼女は言う。じゃなかったら買うんです。なくても問題ないって、それ違います、問題なければなくてもいいって、そんなわけないです。
そうかなと私は言う。そうですと彼女はうなずく。そもそもこの部屋、明るすぎます。明るいのはいいことじゃないのと私は訊く。彼女はつくづくと私を見て、先輩自分で変だって思わないんですかと訊きかえした。こんな強力な蛍光灯で何もない部屋の何もなさを隅々まで照らしだして、明るいことはいいことだなんて。
私は少し驚いた。彼女は、私たち生きてますよねと言う。当たり前でしょうと私は言って笑う。生きてるって更新するってことですと彼女は言う。細胞が死んで新しいのが下から生えくるってことです、身の回りもおんなじで古いのがだめになって新しいのが入ってくるんです、先輩は古いのが死んだら捨てて、それで、ただ、減ってるんです。
音が出るものがなくってさみしくないですか。彼女がそう訊くので私は思い出す。電気屋さんに行って、見たんだよ、でもそのとき一緒にいた人が、要らないでしょうって。音楽ろくに聴かないんだからって。それで、それもそうだなって。
それは間違っていますと彼女は断言した。先輩だって音楽を聴くはずです、頻度は関係ないです。そうかなと私は言う。不健全ですと彼女は言う。健全だよと私はこたえる。ちょっと、地味なだけで。休みの日には近所の河原で野良猫をかまうのが好きだよ、そういう生活がいいと思うよ。
彼女は私を眺めまわして、先輩って仕事でもそうですよね、と言う。私は野心なんかありませんみたいな。でもそんなの嘘だと思うな、ほんとにそういうタイプの人もいるけど、先輩のはコスプレだと思うな、ご隠居コスプレ。
コスプレじゃなくて、現状に満足している、と私は言う。奇妙なことを言うようだけれど、私は今、恵まれすぎていると思うよ。そこそこ好きな分野で仕事をして、まともな生活をして、おかしいと思っている。ある種の人間はそういう感覚を持っている。自分はいつか野垂れ死にするはずの人間で、何かが間違って人並みに暮らしているんだと思っている。
だから欲を持たないのが先輩の倫理なんですねと彼女は言う。たしかに奇妙だけどそれはべつにいいです、要するに先輩の中にはそういう信仰があって、だから先輩は監獄に自分を閉じこめて満足しろ満足しろこれで満足しろって自分に言い続けてるわけですね。言い聞かせてる段階で嘘じゃないですか、それなのにコスプレじゃないなんてどうして言えるんですか。
私は彼女を見る。きれいな女の子だ、と思う。明敏な女の子だ。そしてとても残忍だ。真実を暴露するのはいいことだと思っている。
私ならまずラグを買いますと彼女は言う。床が冷たいのってよくないです。それから端に低い本棚を置きます。本は読んですぐ手放さないで気に入ったのはそこに並べておくの。それでね、上に照明を置くんです、白熱灯の。
そう、と私は言う。そんなお部屋はすてきだねと言う。私ソファを買い換えたいんですと彼女は言う。今のは従姉妹からもらったやつで、もう古いから。ここにもソファあったほうがいいです、先輩どういうのが好きですか、私いまカタログいろいろ見てるから詳しいです。
私は少し考える。布張りの、木の手すりがついてるのがいい。木の手すりいいですね、先輩ちゃんと好みとかあるじゃないですか。彼女がそう言って笑うので私はなんだかひどくさみしくなって、もう寝ましょうと言った。