傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

読モとボーナスとまともな人間関係

読モ、と彼は言う。電話を通した声がくぐもっている。毒蜘蛛、と私は訊く。わざとだ。なに言ってんだモデルだよ雑誌の、プロじゃないしろうとの、と彼は言う。私は仕込んだ冗談が不発だったことにひそかに落ちこむ。それじゃあ美人だね、すらっとした。
美人美人と彼は繰りかえす。美人が好きなのと私は訊く。美人が好きじゃない男なんていないと彼は言う。いるよと私はこたえる。そんなことわかってると彼は言う。あのさあセンセイこの世のたいていの人間はさ、なんかこうセットになった言い回しを頭の中に入れてるわけ、で、それを会話の中で半ば反射的に出す、今みたいに、その正否をいちいち指摘すんな、うぜえ。
セットになった言い回しを脊髄反射で交換する省エネな会話をお望みならよそへ行ってくださいと私は言う。そういうのって私、職場でしかしない方針なので。センセイ相変わらず、と彼は言う。彼は私をセンセイと呼ぶ。
私は軌道を修正する。今日の電話のテーマは新彼女自慢なんでしょ。彼女のスペックを述べよ。
彼は彼女の卒業した大学と就職した会社と育った家と趣味とふだんの振る舞いについて述べた。申し分ないすばらしいお嬢さんです、と私は言った。誰にでも自慢できる。いろんな人があなたをうらやましがる。よかったねえ。
彼はひどくつまらなそうな声で、それ、ただの祝福じゃんか、罵詈雑言は、と言う。あなたに新しい彼女ができてなぜ私が罵倒しなければならないのと私は訊く。それじゃ痴話げんかみたいじゃない、気持ち悪い。
彼は私に取り合わず言いたいことを言う。センセイさっきスペックって言ったよな、それって罵倒に値するだろ、パソコン買うみたいに、ついてるラベルで相手を選ぶ、スペックとスペックのストレートなトレード、そんなのまともな人間関係って言えるか。
言える、と私は断定する。どうしたの、しっかりしなさい。あなたの選択の基準はなんですか。人からうらやまれることでしょう。人のうらやむものを獲得し続けてきた、それはとても立派なことだよ。誰にでもできることじゃない。ちゃんと背筋を伸ばして世間に言いなさい、おまえらとは違うんだって。私みたいな孤独な貧乏人に言いなさい、ざまあ見ろって。そしてがっちりもらったボーナスをぱーっと遣って高笑いでもしていなさい。
彼は常に多数派のよしとする方向に向かって生きてきた。彼は他人からうらやまれることを第一の基準にした。そうして彼は彼の獲得したものを歯牙にもかけない人間がいっぱいいることを知っている。彼は自分のものごとの基準が他人まかせであることを恥じている。好き嫌いの基準さえ多数派に見えるものを貼りあわせて拵えてきたから自分はみじめな人間なのだと考えている。
まあ、自慢は、するけどさ、と彼は言う。でも、おまえらとは違うって言いたくて生きてるみたいでどうかと思う。いいじゃないと私は言う。みんな、おまえらとは違うって言いたくて生きてるみたいなもんだよ。そんなことないだろと彼は言う。もっとなんか、あるだろ、いろいろ。高尚で自律的ななにかが、と私はおぎなう。そうそうと彼は言う。彼は私のこのような機能をオートコンプリートと呼ぶ。
「おまえらとは違う」は高尚です、と私は言う。自分が何者であるかは他者との差異によってしか示されないからね、人間は常にそうする。それこそ自然なことじゃないかな。差異の基準がちがうだけで。そのために彼女をつくったっていい、フェアなやり方なら相手を貶めていることになんかならない。
ふうんと彼は言う。大丈夫と私は言う。心配しなくても彼女はちゃんとあなたという人間を見る。そばにいればいやでも目に入る。ラベルで選んだって目の前にいるのは生身の人間だからね、それを無視できるほど強靱な人はそんなにいない。ちゃんとあなたを好きになるか嫌いになるかどうでもいいと思うか、する。あなたはいつまでもラベルの集合体でいることはできない。
それがちょっとめんどくさくてさあ、と彼は言う。スペック外のところで向こうがいやがったらプライド傷つく。私は笑って、傷つけ傷つけと言う。スペック外の性質につけられる評価は好悪だよ、愛されるか愛されないか、愛されなかったら傷つく、かなしい、それがまともな人間関係というものだよ。