傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

王侯貴族のチケット

ちかごろはどう、と彼は訊いた。総じて敗北している、と私はこたえる。ラブ的な意味で、と彼は念を押す。ラブ的な意味で、と私はうなずく。僕も敗北続きだねと彼は言う。私たちは同じ会社に勤めていて、ときおり食事をともにする。
私たちはお互いの様子を眺め、だいじょうぶ、私たちの敗北はきっと永遠ではない、という意味のせりふを言いあった。もう自分には需要がないのでは、と弱気になったとき、それを否定してくれるとわかっている異性の友だちと話す。いいことだ。
予定調和、と彼は小さい声で言って、インドカレーとナンの皿を視線で走査した。きっと両方がちょうどよくなくなるように計算しているのだ。私はとうにそれをあきらめている。
予定調和は大切だよと私はこたえる。心がなぐさめられるし、お互いを理解しているという証にもなる。でもつまらないと彼は言う。それを必要としている自分の状態がつまらない。
カリヤさんと会ってると訊くと、会社の外で会う機会がないと彼はとこたえる。食事に誘えばいいのに、私とごはん食べるみたいに。私がそう言うと彼はいやそうな顔をして、僕からは滅多に声かけてない、と言う。言われてみればそうだ。カリヤさんは僕に百パーセント声をかけない、僕がそうすることを期待もしていない、だから僕もなにもできない。彼はそう説明する。私はウェイターが皿を下げるのを待って意図的に頬杖をつき、受動的でいるのもたいへんだね、と言った。
彼女の名前を出して僕を動揺させてたのしいかと彼は訊く。動揺してるように見えないと私は言う。なんかさあ、もうちょっとこう、動作が止まるとか顔色が変わるとか、そういうの、ないの。ない、と彼は言う。だから黙っていれば僕の感情は存在しない。誰もいない森の中で倒れた木みたいに。私は彼の話を引き取る。だからカリヤさんにとってあなたの好意は存在しない。気づこうとしない相手だと、あなたは八方ふさがり。
彼は総務のカリヤさんが好きなんだけれども、相手に好きになってもらってからでないと好意をあからさまにできないという面倒な性格のために、彼女の周囲に好意のもとになりそうな撒き餌を落とし続けているのだった。そうして別途恋人になってくれそうな人を探して、デートしてみて、たのしくないから続かなくって、敗北したと言っている。そんなの敗北するに決まってる。不戦敗だ。
友情においては二十パーセントが妥協ラインだね、と彼は言う。食事に誘う頻度の比率に、話が戻っている。愛においてはもう少し妥協しないこともない。とくに習慣化すれば習慣に寄りかかれる。
妥協、と私はつぶやく。じゃあ、理想は。常に追いかけられていること、と彼はこたえる。どんな関係でもね。たとえばあなただけが僕と話をしたがって、僕はそれを聞いてやって、あなたは僕に感謝する。そういうのがいい。ひどい、と私は言う。理想を訊くからこたえただけだよと彼は笑う。理想ってたいていひどいものだよ。
なんで好きな人に好きっぽくしないの、と私は訊く。拒絶されたくないから、と彼はこたえる。受け容れられるかもしれないのに、と私は言う。彼は真顔で、僕はたとえ可能性であっても拒絶に耐えられる人間じゃないんだと言う。絶対にいやだ。世界が終わる。私は笑って、世界は終わらないとこたえる。わかってると言って彼も少し笑う。
受け容れられたらハッピーエンドなんて嘘だよと彼は続ける。相手が好意につけこんで振り回そうとする人間じゃないとなぜわかる。それを防ぐ方法は相手に自分より強い好意を持たせることだけじゃないか。
なんでそんなに好きになった人が怖いのと私は訊く。好きになった人だけじゃないと彼は言う。僕は何も持たずにいたら誰からもまともに扱われないと思っている、そうしてもらえる理由がないと思っている、好意というチケットを手にしてからじゃないと人々は僕を犬みたいに扱うんだと思っている。
だから王侯貴族のように遇されるために、たくさんの好意をもぎとっておくんだね、と私は言う。そうだよと彼は言う。あらゆる機会に、周囲のすべての人から、隙を突いて盗むみたいに、それを取るんだよ。あなただって、いつもかすめ取られているのに、そんなにぼんやりして、僕をいい話し相手だと思ってて、ばかだなって思うよ。
私は彼を見る。かわいそうだと思う。そしてそれを口にする。そういうかわいそうなのってすごくいいな、私がカリヤさんだったらそれ聞いてぐっときちゃう、だから今のせりふ彼女に言ってみない。絶対にいやだと彼は繰り返して、それからたのしそうに笑った。