傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

とっとーの時間

扉のひらく音がした。集中していなかった証拠だ。完全に没入しているとき、その音は聞こえない。いきなり家族が視界に入ってくる。こんな夜中には、妻はまず来ない。来るのは彼に似て宵っ張りな娘だけだ。
とっとー、とっとーと彼女は言い、椅子によじのぼる。彼は妻や娘が仕事部屋に入ってきたときのために、デスクの横に椅子を置いている。彼女たちはそれに座る。娘は彼の膝の上に置かれるより、大人のように椅子に座るほうが好きだ。
彼は自分の椅子のレバーを引く。視界が十センチ下降する。彼女はうれしそうにぷしゅうと言う。椅子を低くするのは最初、視線の高さを娘のそれに近づけるためだったのに、今ではどちらかというと彼の芸みたいになっている。円滑に親をやるにはちょっとした芸が必要だ、と彼は思う。フリスビーを取ってくる犬みたいな。わんわん。
わんわん、と彼女は返す。そうして犬の人形を彼のシャツにごしごしとこすりつける。犬はひしゃげる。台所用スポンジでできているのだ。彼はそれを娘の目の前で切って親子の犬をこしらえた。そういうのも芸のひとつだ。
とっとーはおしごと、と彼女が訊く。とっとーはおしごとですよ、と彼はこたえる。あやちゃんはねなさい。あやちゃんいっかいねた、と彼女は言う。彼の娘は布団に入って目を閉じてしばらくじっとしていれば「寝た」ことになると思っている。そうしてときどき仕事をしている彼のところに来る。すぐに目をこすって自分で寝床に戻るから、きつく叱ったことはなかった。眠れなくて、母親が先に眠ってしまって、それで心細いのだろうと思っている。
彼は彼女の左手からもう一匹のスポンジ犬を取りだす。親子の犬だ。彼女は片方だけ置いてきたりしない。わんわん、と彼女は言う。わんわん、と彼はこたえる。彼は子犬を走らせる。彼のデスクは草原になる。彼のモニタは城壁に、彼のペンスタンドは見張りの塔になる。彼は彼女に子犬を返す。
とっと−、これにこある。彼女がそういうので彼は彼女の指すほうを見る。彼のささやかな本棚だ。あとはにこない。彼女は真剣に言う。そうだねと彼はこたえる。彼女はひどく目がいい。少しずつ違う背表紙が並ぶ中に二冊だけ同じ本があればわかるくらいに。まだろくに字も読めないのに。
彼は彼女の視界を想像する。彼と同じものを見ていて、けれども文字の意味はそのなかに入っていない視界を想像する。彼女の視界に背表紙の文字の意味は漂わない。彼女の視界で彼のマシンの画像処理アプリケーションは状況を語らない。彼の妻が彼に贈ったブックカバーも文脈を生成しない。彼はそれをうまく想像することができない。子どもはいつも他人だ。
それはね、昔おかあさんが、僕が好きだって言ったからかな、買って、結婚するときに持ってきたものだよ。僕がもともと持ってたのとあわせて二冊あるんだ。彼がそう説明すると、しょうせつ、と彼女は訊く。彼がそれを好きなことを知っているのだ。小説がどういうものかについてはまだよくわかっていない。詩集、と彼はこたえる。ししゅう、と彼女は重々しく口にする。彼はうなずく。
少し前、彼女はこの本棚を指さして、あやちゃんこれぜんぶよむ、と言ったのだった。まるでそれが努力を要する適切な目標であるかのように。彼はそのことを思い出してうっかり泣きそうになった。こんな小さな本棚なんて、ちょっとした読書好きならあっというまに読み尽くしてしまうのに。
あやちゃんはもうねなさい。彼は繰りかえす。彼女はなんなん、と言う。なんなんは彼女の発明したことばだ。彼はいまだにその意味を把握していない。機嫌が良いときに発せられるので、同じような様子のときに今はなんなんかい、と訊くと彼女はいたく怒る。ぜんぜんちがう、と言う。
彼女はぽいと椅子から降りてあとも見ずに彼の仕事部屋を出て行く。ねむたくなったのだろう。僕はいつまでとっとーでいられるんだろうと彼は思う。彼女はすぐに、しょっちゅうなにかに感激して涙ぐんでいる父親は変だと思うだろう。タイを締めて会社に行かないことを変だと思うだろう。とっとーはおとうさんになり、「父」になる。そうしたら彼女は、今の彼女の世界をすっかり忘れてしまうかもしれない。僕が彼女のとっとーであったことも。
彼はそう思い、ひとりなので安心して少し泣く。彼はなにしろすぐ泣くのだ。彼はそれから、なんなん、とつぶやいて、彼の仕事に戻る。


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