傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

腐敗のための待機

いい人いないのと訊くと、彼女はそれまでとは異なる複雑な笑いかたをした。私たちは学生時代によく遊んでいた四人組で、久しぶりに集まってささやかな旅行に出ていた。
ホテルの部屋をふたつ取り、夜はその片方に集まった。ひとりが眠いと言って自分の部屋に戻り、もうひとりはベッドの上でうたた寝をしていた。子どもを産んで長いこと飲まないでいたらめっきり弱くなったのだそうだ。内臓ってしばらく使わないと初期状態に戻るのかな、と言っていた。
残ったふたりで残ったお酒を少しずつ飲んでいると、彼女が私に、ちかごろ親しい人はいないのと訊いた。私は通り一遍の報告をして、それから彼女自身に話を振ったのだった。
私、そういうのは、もういい。彼女はそう言い、私は驚く。彼女は社交的で、情感ゆたかで、率直な人格の持ち主だ。彼女が誰にも特別な好意を持たず、あるいは好意を伝えずにいるなんて考えられなかった。私は嘘とつぶやき、それから少し申し訳なくなった。彼女は笑みのかたちを変化させ、私が聞いてほしくってそういう話をはじめたんだから、と言った。
彼女はいつもそんなふうだった。申し訳ないなと思っている私のその申し訳なさを、内実にきわめて近い重さで受けとる。彼女は学生時代から、相手がどのような状態であっても決して不適切な態度をとらないと思わせる情緒的な精確さをそなえていた。
彼女は大学を出ると同時に当時の恋人の郷里に引っ越した。恋人の家は老舗の旅館で、彼女はそこで社員として働き、近隣で恋人と同居した。私たちは彼女がずっとそこにいて家庭を持つものと思っていた。けれども五年後に彼女は戻ってきた。お家騒動があってねと彼女は言った。詳しい事情は口にされなかった。
彼女は介護の資格を取った。時折会えばお気に入りの「利用者さん」のことや、親しくなった人のことを陽気に、適切な距離をもって話した。旅館時代のことは一度も聞いたことがない。
そうして、もういいと彼女は言う。私はようやく口をひらき、だってあなたはあんなにいさましかったのに、と言った。あなたは私たちが好きな人になんにも言えずにぐずぐずしてるときだって、ぱっと相手の手を取ってにっこり笑うことができたのに。私それがすごく、うらやましかったんだよ。
ありがとうと彼女は言う。それからこれ泡ぬけちゃったねと言ってスパークリングワインの残りを自分のグラスにあけ、また口をひらく。
うん、私はそうだったね。私は競走馬みたいにいさましく誰かのところに走っていった。好きになったらわかりやすくそれを示したし、仲良くなれば臆面もなく好き好きと言っていた。それが正しいおこないだと信じていた。私の感情は無尽蔵の贈り物だった。私はそれを人にあげたかった、受け取ってくれる人もいた、私は、幸せだったと思う。
彼女は窓の外を見る。何時間か前にやってきた知らない土地の闇を見る。それはただ黒い。灯りのない夜ならどこにいても見えるものは同じだ。彼女は私の待つ姿勢を察して話を再開する。
でも私は老いたの。私は弱って、消耗して、怯えている。私の好意は無尽蔵ではなくなった。それは私の身を削る有限の資源になってしまった。私はだからひどいけちになった。私は誰かの好意がほしくて、自分の好意はそれを得るための通貨だと思うようになった。私はそれを実感して愕然としたよ。わりに最近のこと。
彼女は気の抜けたぬるい飲みものをながめ、飲まないで話す。
ひどい状態だと思う。心底うんざりする。だから私はそれがあらゆる価値をうしなうのを待っている。私の愛が金を払って処理してもらう対象になりますようにと思っている。私の好意のふるまいが悪臭を放ち、埋め立てにふさわしい廃棄物とみなされますように。おそろいのつなぎを着た清掃員たちがやってきて、手際よくそれを片付けてくれますように。そうすれば私は安心してそれをおもてに出すことができる。
私はその光景を思い浮かべてぞっとする。世界中の誰の感情だってそんなふうにあつかわれるべきではない。でも私には彼女を非難することはできない。だから私はやくたいもない仮説を口にする。しばらく休めばもとに戻るかもしれないよ。
彼女は眠っている友だちをながめる。もとになんか戻るはずがないでしょう。エネルギーはただ失われる。私たちはただ衰える。この人の肝臓はアルコールに不慣れになっただけで、十年前に戻ったわけじゃない。
飲みすぎちゃったと彼女は言う。嘘だと私は思う。でもうなずく。あした八時にロビーでね。彼女は笑顔ひとつでいつもの適度な距離を取りもどし、手を振って部屋を出てゆく。

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