傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

雨ともだちと私

雨すごいですね。いま会社なんですけど、窓の外が世界の終わりみたいですてきです。
メールを書いて送信してしばらく手を動かしていると返信があった。僕もまだ会社です。まったくゴージャスな夜。もうちょっと保ってくれるといいんですが。
その後、雨はしだいに常識的な量に落ちついてきた。こんこんと控えめなノックの音がして、メールを出した先輩が入ってきた。ふつうの雨になっちゃいましたね、と彼は言った。そうですねと私はこたえた。ふたりともなんでそんなにしょんぼりしてるんですかと、一緒に作業していた後輩が訊いた。
私たちは顔を見あわせた。相互に発言を譲る沈黙があり、それから、豪雨が好きなんですと彼は言った。
何年か前、やはりおそろしいほどの雨が降った。外を歩く人のほとんどが傘を差していなかった。いずれ濡れてしまうし、風もあるから、ひらいていると危険なのだった。私はそれを確認していそいそと靴を仕舞った。
今日とちがって、夕方に帰れる日だった。傘は置いて、スリッパ代わりに使っている古いバレエシューズのまま外に出た。滝みたいな雨の中を歩くとき私は高揚し、無条件に幸福な気持ちになる。雨煙の向こうからなにがやってきても私はそれに打ち勝ち、あるいはそれを抱きしめる。そういう気分になる。
私は駅に着いて服の裾を絞って少しのあいだ現実的な空間に耐え(すべての乗客が濡れねずみになっていたけれど、彼らはきっと雨そのものに耐えていた)、それからまた豪快な雨の中を自宅まで帰った。
その次の日、見ました、と先輩が言った。私たちは業務上で少し、あとはつきあいの飲み会で話す程度の間柄だった。雨が好きなんですかと彼は訊き、私はいささか気まずい思いで、そうなんですとこたえた。彼はにっこり笑って、僕もですと言った。
私たちはそれから、それほど親しくない仕事仲間にふさわしい抑制された表現を選んでそのことについて話した。すべての抵抗は無駄なのだというやけっぱちな自由の感覚。服がしだいに意味をうしなうことの爽快さ。靴の中の水の感触が不快から快になる逆転の不思議。皮膚から奪われる体温と歩くことによる発熱が拮抗するダイナミズム。空と空気と自分と地面と地下の境目が曖昧になる心地よさ。
私たちは雨に関する互いの感覚がきわめて近いことを確認して満足し、それ以来、天気予報で豪雨が予測されるたびに携帯メールを交換している。私たちの話題は雨に限定されている。勤務中以外は仕事の話をしない。プライベートな話もしない。私たちはただ空から落ちてくるたくさんの水を共有する。
土砂降りの、世界の終わりみたいな雨が好きなんです。雷とか鳴ってたらもう最高。浴びて踊りたい。いや、雷は浴びたくないですけど。死ぬから。雨をね、雨を観て、雨の中を歩くのが好きなんです。彼がそのように説明すると、後輩はまじめな顔で、なるほど、じゃっかん変質者なんですね、と言った。そうですねと彼はこたえた。しかし無害な変質性です。
彼らは笑う。私も笑う。そんなにへんなことじゃないです、このあいだどこかの作家がやっぱり土砂降りの雨の中を歩くのが好きって書いてました。私がそう言うと彼はほらね、わりと一般的な趣味なんですよと言った。知りあいひとりと作家ひとりで一般的ってどうなんですか、サンプル数足りなすぎですと後輩が言う。
その作家が雨のなかで何をしていたかは黙っていようと私は思う。なにしろここは会社だから。私たちは作り終えた資料を積み重ねて傘を持ち(雨はすでにそれが有効なだけの規模になっていた)、あたりさわりのない話をしながら廊下を歩く。