傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

身体を取りもどす手順

手放した扉が閉じる音がして、彼女はそれにもたれかかった。頭がしびれるような停止の感覚があり、背中が扉を擦って滑り落ちる感触があった。触覚は一秒の何分の一かごとに遠ざかり、彼女はおなじみの感覚、世界から柔らかく厚い皮膜で隔てられているような感覚の中にいた。その中で自分が玄関に座っていることを自覚した。
深夜に職場から帰るなり彼女はそのようにして、それだから傍らには終夜営業のスーパーマーケットから持ち帰ったプラスティックバッグがいびつなかたちに崩れて中身をこぼしていた。電灯のスイッチに手を伸ばさなかったから視界は平板に黒い。彼女は自分が電灯をつけることを想像する。可笑しいと思う。肩より高いところに腕を持ちあげて指先を小さいプラスティック片に命中させるなんて、たちの悪い冗談みたいな気がした。ウィリアム・テルだとか、そういうたぐいの。
可笑しさも電灯の概念もスイッチの形状も唐突に彼女の意識から姿を消す。彼女は眠気に似た薄い吐き気とファンデーションが貼りついた肌の息苦しさを自覚する。かたわらのプラスティックバッグがやけに大きな音をたてて崩れた。
豆腐、と彼女は思う。早く冷蔵庫に入れなくては室温が高いんだから早く早く腐ってしまう豆腐がだめになってしまう。そう思う彼女と座りこんでいる彼女のあいだには長い距離があった。彼女は遠くにいる古い小さい冷蔵庫と一丁七十八円の絹ごし豆腐と長方形のスイッチとそれを上手に押せる自分のことを思って少し泣いた。
安心して泣いたんだと彼女は思った。外にいて仕事をしてそんなに安心していなかったのかと思った。彼女はもう立ち上がることができた。それほど時間をかけずに電灯のスイッチを押すことだってできた。
食事をしようと彼女は思う。私は少しばかり疲れていたってちゃんとスーパーマーケットに寄って食材を買って帰って、たとえどうしようもない手抜きでも自分でつくって食べることができる人間だ。
彼女はそう思って買ってきたエリンギのパッケージを乱暴に剥がし、手で持ったまま真ん中に切れ目を入れてそこを頼りに二つ折りにする。折れ残った部分を無視して縦に裂く。きのこの肌はひんやりと冷たく、どこか動物的に感じられる。常備している玉葱を、やはりまな板なしで切り落とす。薄切りの牛肉に醤油と酒を揉みこむ。肉はぬるりと冷たい。死んでいる、と彼女は思う。すべてを炒める。複雑な匂いが発生する。彼女の世界が少しずつ手応えを取り戻す。
彼女は正座していただきますと言って食事をする。ちゃんと食べているのにどうして身にならないんだろうと彼女は思う。彼女は自分のあばら骨のことを考える。体側にうっすらと透ける湾曲した骨のことを。
どうして私は腰まわりに脂肪の層をまとった女でないのだろうと彼女は思う。どうして鎖骨のすぐ下からむっくりと肉を膨らませた女でないのだろう。どうして私のくちびるは化粧品を載せないと明るい色にならないのだろう。どうして私の爪はすぐに折れて剥がれて長く伸ばすことができないのだろう。
彼女は炒めものの残りを冷蔵庫に入れる。冷蔵庫は小さい。ぶうんとうなっている。もらいもので、彼女の半分くらいは生きている冷蔵庫だ。だいぶ老いている。私も老いていると彼女は思う。私はこんなにも茫漠と疲労しているから、もうずいぶんと年をとっていてじきに死ぬのかもしれない。それなのにみんな私を若いと言う。二十代半ばだから若いと思っているのか。ばかじゃないだろうか。二十代の老人なんかいくらでもいる。
彼女はシャワーを浴びながら歯を磨く。お湯が当たると自分に皮膚が張りめぐらされていることを感じる。歯ブラシを動かすと自分には硬い歯があり、それがとても複雑なかたちをしていることを自覚する。露出した骨。
ベッドにもぐりこんで、ひとを好きになりたいな、と彼女は思う。誰かを好きになりたいな。こっちから連絡しないと一生会えないみたいな人がいいな。私だけがうんと好きでいるような。そうすればその関係は私の判断にしか動かされないですむ。
そこまで考えて彼女は苦笑する。私には他人に振りまわされるエネルギーも残っていないのかと思う。彼女はいまや彼女の身体にぴったりと隙間なくおさまり、シーツの繊維を鋭敏に感じとっている。彼女は眠りに落ちる。