傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人生が訪れる日

彼女は生まれてから今までずっと住んでいる家と、そこから徒歩十分のところにあるペットショップを往復して暮らしている。ペットショップは彼女の両親が所有する建物の一階に入っている。住宅街にある小さい店だ。
小さいから犬や猫やハムスターのほかに少しの熱帯魚も置いてある。家庭用の水槽がひとつきり、彼女がアルバイトのようなかたちで店番を始めた十五年前から数えて十匹しか売れていない。私が飼ってるペットみたいだと彼女は思う。
犬や猫は彼女のペットみたいではない。それらはいつも子どもで、いつもいなくなる。いなくなる時期が遅くなればなれば値引きに値引きを重ねて、ゼロになる。
彼女は大学を出てすぐにペットショップで働きはじめた。母親と交代だ。父親は会社員で、ペットショップには興味がないように見える。彼女は毎朝六時三十分までにベッドを出る。母親と分担している家事を済ませ、八時四十分までに自宅を出て九時前にペットショップに入る。店を開き給餌をし掃除をする。備品を点検しときどき来る客と決まって来る近所の人の相手をし犬猫にブラシをかけ掃除をする。
彼女は掃除が好きでも嫌いでもない。その手順は十五年のうちに最適化され、彼女は円滑にそれを執りおこなう。彼女の生活の大半はそのように遂行される。
けれどもその日は例外だった。彼女は人々が改札にカードをかざして通るのを横目で見ながら紙の切符を買い、遠方まで電車に乗って繁華街に出た。
入った店には既に十人ばかりの元同級生がいた。彼女が高校生の時分、一緒にお弁当を食べていた女の子が(かつての女の子が)声をかけてくれるので、何年かに一度、小規模な同窓会のような集まりに参加する。
外の食事は変な感じがする、と彼女は思う。慣れていないからだとは思うけれど、それに慣れるような暮らしを彼女はうまく想像することができない。彼女は昔の同級生たちを見渡す。誰もがよくしゃべり、よく食べている。彼女はほほえんでいる。お弁当のときと同じだと彼女は思う。彼女を除いた全員が化粧をし、高価そうな、または新しい服を着ている(彼女にはその二つの区別がつかない。つける必要も感じない)。
会合が終わり、コーヒーを飲もうと彼女は思う。外で誰かに会うのは特別なことだから、最後にひとりでコーヒーを飲んでから帰ることにしている。なんでもない日には決してそうしない。彼女は例外にあっても規則をつくり、それを守る。
ざわめきの紗を透かしてさっきまで耳にしていた声が聞こえた。彼女は斜め前の人の向こうを見る。会食の席にいた同級生のうち二人が、彼女に気づかずに話していた。
アイちゃんはほんとすごいよ、偉い人になっちゃったねえ。あの子ひそかに努力するタイプだからね。そっかあ、私あの子とあんまり接点なかったんだ、高校生のとき。ねえコズエさんの子どもって今いくつだっけ。たしか、二歳になったところ。私も一年くらい会ってないんだ。
カタギリさん。
彼女は唐突に自分の名前を聞かされてどきりとする。ふたりは彼女に気づかないまま彼女の話をはじめた。カタギリさん変わってなかったなあ。そうだね、にこにこしてて、静かで。服とか髪型とか、変じゃないんだけど、なんだろう、時間が止まっている、ような。おうちの仕事、してるんだよね。うん、外で働いたこととかないって言ってた。まあ、就職先あんまりなかったもんね、あのころ。
私は思うんだけど、みんながいくら変わってないように見えたって、やっぱり、変わってる。十五のときの私たちは子どもだった、私たちの人生はまだ始まっていなかった、何歳と決まっているわけじゃないけれど、いつか私たちのもとに人生は訪れる。私たちはそれを選択し、選択したものを引き受け、それによって何かを得て何かをうしなう。それは私たちを変貌させる。でもカタギリさんには、その跡が見えなかった、あの人のところに、それは訪れたのかな。


私はそこまで話して彼女が同じ店にいることに気づいた。彼女はぱっと目を逸らし、それから私たちのテーブルまで来た。高校生のときと同じ、さっきの食事のときと同じ、ほほえみ。
選ばないことを私は選んだの、と彼女は言った。私は、何も得たくなかったし、何もうしないたくなかった。私は今のままがよかった、世界は得体の知れないものだし、そんなものに飛びこむなんてどうかしていると思った。私は、きっとずっと、このままで、年をとって、死ぬの。知らなかったかもしれないけど、そういうタイプの生き物もいるんだよ。

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