傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

着道楽とリョウシンノカシャク

いい靴ですね先輩はいつも、と彼女は言う。靴係数は少し高いねと私はこたえる。彼女は鼻歌まじりにインスタントの味噌汁をかきまわし(相対性理論の『Loveずっきゅん』)、小さいスプーンをぺろりとなめてからその場で洗った。この後輩は食器を使い終えてすぐ洗浄する。子だくさんの昔ながらの熟練の主婦みたいに。まだ二十三のひとり暮らしの女の子なのに。
私たちは給湯スペースを出る。彼女は私の足を見て話す。靴係数っていいですね、でも収入から算出するとあんまりおもしろい数値じゃないかもしれないです、相当小さくできる支出じゃないですか、だから支出の割合から出したほうがいいと思います靴係数。
私は席に着いてカップ春雨に息を吹きつけ、コンビニエンスストアの巻き寿司のパッケージの精巧さに何度でも感心しながら剥がして、あなたは何係数が高いの、と訊く。彼女の趣味は節約だ。
彼女は持参したおにぎりと小さいプラスティックの容器を置いて不意に立ち上がり、ひらりと回転してみせる。きれいだと私は思う。空気を含ませた細い髪、それを纏う小さい顔、小さいくちびる、小さいティアードスカート。とてもきれいだ。
お洋服かな、安いものだけど量は人並みにあります、ほかはわりと質素だし。彼女は座ってからそう言う。
わりとっていうか、相当、と私はこたえる。彼女は交通費を減らすために底の擦りきれたスニーカーで二駅分を歩き、靴を履き替えて出勤する。でも先輩は私がそういうこと話すから質素って思うだけですよね、私ぜんぜん貧乏っぽくないじゃないですか。彼女はそう言い、私は笑ってこたえる。貧乏に見えないって確信できるのはいいことだよ、あなたのそういう自信、好きだよ。
だって私ぜいたくだもの、と彼女は言う。夢みたいにお金つかってます、私、主観的には。私、こんな、いい生活して、楽して、夢みたい。
私は人がお金を遣う場面に興味があるので、どうしてお洋服は倹約しないのと訊いた。それはすごくいいことだよ、ただ私は個人的に人が何に対してどのように支払いをするかについて興味があるの。
彼女はうっとりと首をかしげて、マヨネーズで和えたブロッコリーを口にほうりこんだ。それをじゅうぶんに咀嚼してから、先輩カシャクってなんでしたっけと言う。ほらリョウシンの、あれって容赦なくって意味でしたっけ。
それは単に責め立てるという意味だよと私はこたえた。良心の、だったら、あなたの良き心があなたの良くないおこないを責めさいなむということ。容赦ないほうは漢字が違って、意味は「容赦」だけ、ない、は入らない、だから言い回しはカシャクなく、になる。
先輩は国語ができますねえ。ありをりはべりいまそがり。彼女はそう言い、私は笑う。私はそんなものろくに覚えていない。なりけりと返したら彼女はおおいに笑って、それ中学生以下です、もう全然だめ、と言った。私は昼食のときに人を笑わせることができて少しうれしかった。
呵責、と私は確認する。そうです良心のあれ、と彼女は言う。私、あれでだいぶ苦しんだんですけど、でももうなくなって、呵責。それで私お洋服買ってたのしいんです、十八で家を出るまでドライヤー使えなくて。
私が目で問うと彼女はドライヤーと繰り返す。髪きちんとするのなんとなく禁止で、母親はいやな顔して父親はからかうんです、そういう家だったんです、ブスが色気づいて笑えるって、父親が。お風呂のあとは洗濯物ふやさないように脱いだ服でからだ拭くんです。
変だねと私は言う。まじ異常ですと彼女は言う。にこにこ笑って言う。そうして不意に笑みを停止して、でも私このあいだお母さんのこと好きになりましたと言う。
おかあさん私にずっと手紙よこしてたんですけど、私いいお母さんなのに娘が薄情でかわいそう、みたいな、自己憐憫だけの手紙、だから私いつも燃えるゴミに出してティッシュとかと一緒に燃やして、でも私、この春に引っ越して一年たって、郵便が転送されないんです、お母さん私の住所わからないんです、そしたらこないだ母親からメール来て、妹のアドレスから来て、ごめんねずっと、もう好きにしていいからねって、ずっとずっとごめんね、お父さんのことも、知らないふりしてごめんなさい、って。
だから私いまお母さんのこと好き、と彼女は言った。連絡してないけど好き。私はじめてお母さんのこと好き。
彼女の語りはそこで終わる。お洋服たのしいねと私は言う。たのしいですと彼女は言う。彼女は今日も熱心に働いて電車に乗って降りて二駅ぶん歩いてバランス釜のある木造アパートに帰って十全な幸福の中で眠る。