傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

不幸への欲望と作り話という装置

昇格おめでとうと言うと彼女はうつむき、ばれてたんだとつぶやいた。わりとわかりやすいと思うよと私は言った。いいことだけ反対のこと書いてるでしょう、ずっと。
私はここ一年ほど彼女のブログを読んでいた。リアルな友人としてSNSでつながり、そのプロフィールで紹介されていた別のブログを見て、RSSリーダに登録した。しばらく読んで気づいた。彼女は嘘を書いている。
もちろん、匿名ブログに事実以外について書くのは少しもおかしなことではない。私だっていちばんの趣味はうそブログを書くことだ。嘘はなにしろたのしい。誇張も、反転も、部分的なすり替えも、言い回しだけ整えるのもたのしい。
でも彼女は私のように好き勝手に話をつくって遊んでいるのではなかった。彼女の嘘には法則があった。基本的にほんとうのことが書いてあり、ただ、とくに良いできごとが起きたとき、それを反転する。悪いできごとにすり替える。私は彼女とときどき連絡をとりあっていたのでそのことに気づいた。それでもう一度SNSのプロフィールを見ると、ブログの紹介が消えていた。ブログには嘘を書くことにして、Web上の公式の自分から切り離したのだろう。
公式の、物理的な存在としての彼女を知らなければ、ブログの嘘はそれとわからなかったと思う。金融商品で出した損失や夫との諍いや仕事でのミスについて書かれた文章は奇妙な重みを持っていた。それは現実のようだった。それは彼女に関する事実を書いた文章より現実のようだった。その文章には人の目を文末まで引きずっていく強制力のようなものがあった。
彼女ははずかしそうに笑って、自分でもどうしてあんなの二年も書いてるかわからない、と言った。最初はね、転職がうまくいったとき、こんな運の良いことあるわけないって思ったのね、そんなの嘘みたいだって。それで、嘘みたいじゃないほうを書いたの。書いてみたらすごくすっきりした。
すっきりって、つまり、自分のあるべき姿はこれだ、というような感じかな、と私は訊いてみる。彼女はぱっと顔を明るくして、そうそう、そういう感じ、と言う。こっちがほんとうなんじゃないかって、そう思って書いてる。
恵まれていることに耐えられない、と私は言う。ある種の人間は一定以上の幸運や好意や評価に耐えることができない。分不相応だと思ってしまう。分なんて自分で決めたらいいのにね。でもそれができない。だから幸福に襲われると不幸を欲望する。そういうことだと思う。
彼女は何度かこまかくうなずき、そんなに珍しい話じゃないのね、と言う。珍しくないと思う、と私はこたえる。でもあなたみたいなかたちでそれをいわば「お祓い」してるのは珍しいかもしれない。
お祓い、と彼女は繰りかえす。私はうなずく。彼女のおこないは私の目にそのように映る。分不相応に思える幸福をひそかに不幸に書き換えて、それを他人の目で眺めてこちらが嘘だと認識して、そうしてようやく現実の幸福を我がものとして受け容れる。
自分ではなんだかよくわからないまま書いちゃってたんだけど、そう思うとなんだか良さそうね、と彼女は言う。良いと思うよと私は言う。うそ文章は書く人を救う装置なんだと思うよ、書くときのくせはその人のそのときの必要に合わせて変わるんだと思う、だから不幸にすりかえるのが必要なうちはそうしたらいいと思う。