傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

町のはずれの森の中の深い洞窟

彼おとうさんとうまくいっていないんですって、と彼女は言った。また、と私は訊いた。また、と彼女はこたえた。あなたってそういう人とばかり縁があるみたい、と言うと、彼女は少し思案し、上下左右に順繰りに視線を送って、それから言う。
おかあさんとうまくいっていないとか、おとうさんとしっくりきていないとか、そういう問題はよく聞くけれど、それはわりといろんな人にとって核になりうる問題だから、だから聞くんだと思う、私は、ただ親しくなった男の人から、あっという間に、なんていうか、留保のない情報伝達をされる、そういうパターンができあがっている、彼らの話題の共通性よりは、そのことを考えたほうがいいように思う、そう、男の人だけではなくって、仲良くなった女の人だって、早い段階で深刻な事情を話すよ。
彼女がそう言って私の顔をのぞきこむので、私は息が詰まった。私だって、その種のことを彼女に話した。十年ばかり前、私と彼女がはじめて口をきいて間もないころに。
私は注意深く訊く。いろいろな人があなたにふだん話さないことを話すのはどうしてかな、そしてそのことはあなたにとってどんな種類の経験なのかしら。
彼女は中空に視線を固定して考えるような表情をし、しかし実際は考えていない。彼女はただ以前考えたことを頭の隅から引っぱりだして、それをわかりやすく整形しているだけだ。そんな気がした。
それは私の中が空白だからだよ、と彼女は言った。私、みんなみたいにいろんなこと覚えてない。知識っぽいことは人並みに身につくし、今の仕事なら人並みにできるけど、できごとの記憶がものすごく薄い。最近のことでも、なんでも忘れちゃう。
私は意図的に呼吸の速度を落として彼女の淡泊な口調に耳を澄ませる。そこになにかの引っかかりがないか、注意深くてのひらを這わせて探す。でもそれはあくまでつるりとしていて、つかめるところがどこにもない。
そんなだから、私がからっぽだから、みんな私に、心の底のほうにある話をする。私が白い紙のようだから、ペンを持っているような人はそこにいちばん言いたいことを書いてしまう。彼らは、紙のことはあまり考えない、紙は与えられたものだと思っている、そうして、たくさん書いて、紙が黒っぽくなったら、ごく当たり前のように、そこからいなくなる、でも私は、ほんとうは黒くなっていない、別の人が来て見たら、私はやっぱり白い紙で、だからその人は私に話をする、他の人には簡単にしないような話を。
それってどんな気持ち、と私は訊く。彼女はひっそりと笑ってこたえる。そんなに悪くないよ、少なくとも私は求められているし、紙が黒くなってしまうまでは、みんなの役にたっている、私は町のはずれの森にある深い洞窟みたいに扱われている、胸の中の秘密を叫ぶとそれを吸いこむ洞窟、そういう洞窟はそんなにたくさんあるものじゃない、だからみんな、私を必要とする、みんな、一時的に。なぜ一時的かというと、自分のことを忘れてしまう相手に対する思い入れは長く続かないからだよ。
私は彼女を見る。この人は薄情な人だと私は思っていた。この人は私と連れだってどこかへ行って楽しく過ごしてもそのことを忘れてしまう。そんなことあったっけと言われて私は少し腹が立った。あったよ、なんで忘れちゃうの、あんなに楽しかったのにと言った。彼女はごめんなさいと言った。ごめんね、私なんでも忘れちゃうんだよ。
私は彼女を見る。彼女は話す。私たぶん死ぬまでそうなんだと思う、入れかわり立ちかわり、いろいろな人が洞窟の前に来る、入らない、話すだけ。でもそれは、私にとってそんなにひどい話じゃないんだ。あなたはそれを不幸だと思っているかもしれないけれど、あなたの大切な人もきっと、私のような人に言うのよ。あなたに決して言わないことを言うの。王さまの耳はろばの耳、って。