傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

依存のデザイン

やっぱりあれですか、腕にシールみたいなの貼るんですか。私がそう訊くと彼はなぜだか少し得意そうな面もちで、そりゃあちょっと古いですよと言った。今はシールやガムでちょっとずつニコチンを摂取しつつ減らすんじゃなくって、いわゆる禁断症状、離脱症状っていうんですが、それを感じるところを別の物質で塞いじゃうんだそうです、薬で。
私、花粉症なんですけど、症状を抑える薬は花粉を感じるところをあらかじめ塞いでしまうんだって聞きました、似たようなものでしょうか。重ねて訊くと彼はそうそうと言って人差し指でこめかみの少し上を何度かつつき、花粉症はどうだか知りませんが、禁煙の場合は脳です、僕のこの脳の中の「煙草ほしい感」「煙草きもちいい感」みたいなのを感じる受容器に作用するらしい。かくして煙草に意味はなくなり、苦痛なしの禁煙が実現する。どうです、SFでしょう。
私たちは感心して、SFですねえと言った。私たちはその晩、ひと仕事終えて打ち上げをしていた。ふだん飲むと吸う人が灰皿のない席で泰然としていて、それでそういう話になったのだった。
そしたらお酒が要らなくなる薬もそのうち出ますかね、と誰かが言う。アルコール依存症の治療にはいいかもしれませんけど、お酒が全然おいしくなくなったら、ちょっとさみしいです。
それを皮切りに、みんながてんでにやめたいことを口にしはじめる。じゃあ私チョコレートが要らなくなる薬ほしい。そもそも食べ過ぎないための薬もできるんじゃないですか。いや、それはもうあるでしょう、単に食欲を減退させるのは不健康ですよ、そうじゃなくって、ストレス解消食いみたいな、依存性のある食べ方をやめる薬が必要じゃないですか。ゲームはどうでしょうね。ついやっちゃうんです。そんなにすごい楽しいってわけじゃないんだけど。ゲームの楽しさを感じる物質とか特定できますかね?できるんじゃないですか、そのうち。だって「煙草ほしい感」を感じるところをピンポイントで塞ぐとか、それだってもう絶対できなさそうなことなのに、できちゃってるんですから。
帰りの電車で居眠りし、最寄りの駅で降りて、いつもより少しゆっくり歩きながら考える。
私たちはサイエンス・フィクションみたいな薬なしでも、自分の持つ依存をデザインして生きている。チョコレートを食べすぎないように。お酒を飲みすぎないように。ゲームをやりすぎないように。少し度を超すことがあっても、たいていの人はうまくやっている。なにかにしがみつかなくて済むように分散していろいろなものを少しずつ求めて、それがなくてもすぐに代替が見つけられるよう準備しておいて、なにかを過剰に欲しないように自分を訓練する。それが大人になるということだと私たちは了解している。
スーパーマーケットに立ち寄って、桃を選びながら思う。桃はおいしい。でも夏を過ぎたら食べられなくなってしまう。だから桃がなくては生きていかれない人にならない。秋になったら梨を食べて冬になったらりんごを食べて私は満足する。なにごとにも代替があって私たちは幸せだ。
ふたたび道を歩きながら思う。私たちは代替される側でもある。依存されたらもちろん困る。職業上の役割はつねに代替可能でなければならないし(少なくとも組織の中でおこなわれる仕事の多くはあまりに属人的にならないかたちに設計される)、個人的な関係においても依存はしない/されないほうがいい。そういうことになっている。
なにごとにも代替があって私たちは幸せだ。なにごともほどよく頼り、なければすばやく代わりを見繕う。ほどよく頼られ、辞退すればほどなく誰かが代わりに収まる。私たちはお利口だ。秋になったら梨を食べて冬になったらりんごを食べて、そしてとてもさみしい。小さい清潔な錠剤で手軽にデザインできるようになったらもっとさみしくなるんだろう。