傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

善人らしい善人

それで彼女はどんな人だったんですか。私はパパイヤのサラダを取りわける彼の手つきを見ながら遠慮がちに訊いた。つまりその見た目とか、そういうのですね、えっと、可愛い人でしたか。
うちの会社のね、彼女より年上の部下に見せたら口をそろえて可愛いって喜びそうな感じ。よくいる感じだよ。何て言ったらいいのかな。彼は小皿を差しだしながらそう言う。彼は大皿の料理がくるとごく自然に私より先にそれを取りわける。私はどうもありがとうと言う。私が彼にできることはそのほかにない。
彼といると私は小さい子になったみたいな気がする。彼は私が少しでも困っているとすぐに見とがめて言う。たとえば、ここで荷物をあずけるといい、それはそのままにしておけば始末してもらえるから気にしてはいけない、段差があるから気をつけて、ああ魚の鰓の裏はねこんなふうにするときれいに取れるよ見ていてごらん、ここでなら大丈夫、電話がかかってきたので少し話してくるけれど必ず戻ってくるからね、という具合に。なんのやり方もぜんぶ知っている人のように。
人を甘やかす能力がひどく優れているからこの人はかわいそうだと私は思う。こんなにも上手に人を甘やかす人は他人に甘やかされたってそのことをうまく感じられない。誰にどう甘やかされても自分が相手にするよりへたで、だからどうかすると相手が一生懸命甘やかそうとしていることに気がつかないかもしれない。かわいそうだ。
私は彼のことばからパステルカラーのいかにも女性的でトラッドなデザインでなおかつ現実的な価格の服装に身を包み控えめな茶に染めた長い髪をゆるく巻いて左右対称のいかにも善良な微笑を保った女性を思い浮かべて言う。その人はそんなに可愛かったのにどうして別れたんですか。
彼は適切な量の息をスプーンに吹きかけてグリーンカレーを冷まし、うん、うまい、とつぶやいてから言う。彼女がどうしても別の男と別れなかったからだねと言う。彼女はパン屋さんで働いていて、お給料を少ししかもらっていなくてでもそれは小さいころからの夢で仕事は楽しかったし毎日いいにおいのところにいて幸せだったから辞めたくなかった、けれど服なんかもほしいしエステにも行きたいからそういうものをくれる男とつきあうんだって言ってた、ずいぶんと年上で彼女の死んだ母親を囲っていた男なんだ。愛人だね。
私はうなずく。彼もうなずく。私たちはそれよりほかにできることがないので、ただそうする。アイジン、と私は思う。アイジン。エステ。ファンタジィに出てくる食べ物の名前みたいだ。
僕はそれだからその男のくれたものなんか僕がみんなあげるって言った。実際にそうした。でもだめだった。さすがにね、そんなのは辛いよ。だから別れた。
彼はそう言い、私はごく慎重に、どうしていろんなもの彼女にあげたんですか、ほしいって彼女が言ったんですかと重ねて訊いた。彼女は一度もそう言わなかった、でもそうしないと僕の前からいなくなってしまうと思ったから僕はそうした、と彼は言った。彼女はそれがほしいから別の男とつきあう、だからそいつに勝って選ばれなくちゃいけないと思った、勝てると思ったし、勝ったと思った。
だから彼女はあなたを憎んだんじゃないですかと、私は言いたかった。彼女はあなたからはなんにもいらなかった、ただあなたのことが好きだったからあなたといた、別の男と同じふるまいをしてほしくなかった、それなのにあなたがそうしたから彼女はいなくなったんじゃないですか、彼女いい人じゃないですか、おそろしくいい人じゃないですか。そう思った。でも言わなかった。


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BGM くるり「ピアノガール」