傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一級の奴隷

なんでずうっと体育会系だったの、と私は訊いてみた。命令とかされてつらい思いするじゃない、なんか、怒鳴られたりして。
彼はしばらく考え、練習すればうまくなるのって気持ちいいから、とこたえた。
ほかにすることないし、きつくても別にいいやって。いや、それは二番目以下の原因か、一番目はさ、うん、俺には命令する誰かが必要だったからだな。
私は感心した。彼はつまらなそうに続ける。
子どもには、親はなんだかすごく見える。住む家も食う物もみんな手に入れててすげえと思う。でも中学生くらいになれば、親はそんなにたいしたことないってわかる。じゃあなにがたいしたことあるかって考えたら、なんか誰かの命令きいてんだよ、親も。まず母親は父親の命令を聞いてる。父親は会社の命令を聞いてる。で、金もらってくる。
私はうなずく。自覚的な中学生だ。彼は眉間に皺を立てて踵で何度か床を打ち、それから言う。
金くれる連中が何をほしいかって言ったら、奴隷がほしいんだよ。充分に訓練された、気の利いた奴隷が。訓練って、つまり、言うこと聞く訓練な。あいつらはそうだなあ、あれだ、古代ローマの市民みたいなもんだね。で、上級の奴隷はもっと下の奴隷をこき使う。奴隷に命令される奴隷よりは、市民のすぐ下の、一級の奴隷になったほうがいいだろ。だから俺は訓練の場にいた。そしてめでたく一級の奴隷になった。
たとえ話がうまいね、それってとてもいいことだよ、と私は言う。彼はそれを無視して言いつのる。彼はたとえ話の価値をわかっていないのだと私は思う。
俺には命令する人間が必要だった、これから先も一生必要だ、でもろくでもないばかに命令されるのはごめんだ。だから俺はできもしない勉強を必死にやって、いい大学にも入った。市民たちに高く買い上げてもらうために。そして気に入られて養子にしてもらうために。街から追いだされてみじめな暮らしして早死にするのはいやだし、ほかにすることもないし。ていうか、なにかを純粋に楽しいと思ったことがない。俺は奴隷向きなんだよ、悪いか。
彼は利口だなと私は思う。利口だから自分のことを奴隷だと思いこんで、ひとりで怒っている。
逆に訊くけどセンセイはなんで奴隷じゃないわけ、と彼は言った。彼は私をセンセイと呼ぶ。九割がたは揶揄していて、残りの一割で自分の知らないことばを遣う人間を不気味に思っている。
センセイってぶっちゃけワーキングプアじゃん。いい年して安アパートでちまちま自炊していつクビになるかわかんなくて死にたくなんない?女としても賞味期限切れてるしさあ、もう乾燥肌のばばあじゃん。これから先なんか楽しいことあんの?まじ人生詰んでる。
彼がそう言うので、私は少し笑ってこたえる。
ワーキングプアでも賞味期限切れでも生きていられるよ。大丈夫。心配いらない。生きているとわりと楽しい。そんなにたくさんお給料をもらわなくっても、毎日働いていると人生は進んでいると感じるよ。それに私はあなたが考えているみたいに、なにかしたいことがあってそれに殉じてローマの街の外で原始人みたく暮らしてるわけじゃない。私はただ一級の奴隷になる能力を持っていなかっただけなんだよ。
嘘つけと彼は言う。彼はばかだなと私は思う。彼はばかだから、「奴隷」にならずに「街の外で原始人みたいに暮らして早死にする」人々が高尚な目的や純粋な情熱をもってそこを選んだのだと思いこんで、勝手にうらやんでいる。自分にない楽しみを知っているのだと思って焦って八つ当たりしている。ただ多数派のうらやむ道をめざしてきた自分は主体性のないだめな人間なのだと思って苛だっている。彼はよくがんばってきた立派な人なのに、そのことを自分で少しも褒めてあげようとしない。
本当だよと私は言う。私はたくさんの人が当たり前にできることのいくつかが、どれだけがんばってもできない。だから私にはローマの外で原始人っぽく暮らすほか選択肢がないの。森で木の実をひろったり、うさぎを狩ったりして。でも大丈夫だよ、私はそれを楽しんでいるから。
悪かったよと彼は言った。悪くないよと私はこたえた。

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