傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

再生する人たち

私たちは消耗していた。疲弊してうんざりして早く帰りたかった。でも遠方で仕事をしていて、帰るのは翌日だった。私たちは駅前のファミリーレストランに入った。私は彼女のことが好きではなかった。彼女もたぶんそうだったと思う。私たちは互いの職掌の上でしばしば利害が対立する立場にあったし、個人的にも相性が良いとは言いがたい組みあわせだった。彼女は即断したことが誤っていたときにごまかすのがひどく上手に見えた。そうして彼女の目に映る私は、判断力にとぼしい愚図だったはずだ。
私たちはプラスティックのテーブルをはさんでプラスティックの革もどきを張った椅子に腰かけプラスティックの味のする食事を黙々と咀嚼した。どうしてこんなにキャベツの味が薄いんだろうと私は思った。
隣のテーブルには若い男女がいた。私たちの食卓ではぜんぜん会話がはずんでいない上、彼らの声にはいずれも鼓膜をつきさすような攻撃性があって、いやでも耳に入ってくるのだった。
女性は個性が強いわりによくまとまった服装をしていた。相手の耳朶をつかんで引き寄せるような、ある種の磁力と不快感を同時に感じさせる口調で話す人だった。男性のほうはあまりファッショナブルとはいえない。椅子の上で立て膝になり、L字の位置関係にある女性のほうを向いていた。しばしば「でも」ではじまるせりふを、驚くほどの早口で差しはさむ。彼らは対照的でありながら、どことなく共通する雰囲気を持っていた。
だから結局チーフは自分が無難に過ごせればいいっていう典型的な官僚体質なんだよ。そうねビジョンがないのね、でもだいたいはそんなものよ、だって彼らは正しいことを知らないんだから、自己を向上できないわけでしょう。別に俺はチーフに俺たちにみたいになってほしいと思ってるわけじゃなくてさ、八つ当たりでクビにされるのはごめんだってだけで。それが高度すぎる要求なのよ、ケイジくんは気づきが半端で段階が深まっていない、彼らの中にいると優れた人間ほど排除される、優れてるって学歴とかじゃないのよ、わかるよね、気づきを得て日々それを磨き実践するということよ。もちろんもちろん。それならちゃんと三章まで覚えてきてね次のミーティングまでに。
そのような会話を延々と続けたあと、女性はさっと立ち上がって簡単に男性に背を向けた。男性は慌てて伝票を取り、その後ろ姿を追いかけた。
なにあれきもい、と目の前の彼女がつぶやいた。それからちょっと気まずそうに、気持ち悪い会話でしたね、と言い直した。私は深くうなずいた。ひたすら職場の上司がだめだと話す男性と、宗教か自己啓発かはわからないけれども、なんらかの教典にすべてを結びつける女性。
なんであんなに気持ち悪いんでしょう、男のほうは自分の話が実は女の耳に入ってないっていうか、なんか壁打ちみたいになってるのに全然気づいてないみたいでした、だからでしょうか。彼女がそう言うので、私はそうですねとこたえる。あと、女の人の受け答え、あれってどっかに書いてあるせりふなんだと思います、マニュアルがあって、そのなかのせりふを適宜再生してるわけですよ、私、そういう人ほかにも会ったことあります、なんかね、ぜんぶコピペなんです、話を聞いてるとそれがじわじわっとわかってくるんです。
ああきっとそうです、いいこと言いますね、と彼女は言った。私は彼女にはじめて褒められたんだけれど、そのことよりも彼女のことばがいかにも彼女らしいことがうれしかった。この人はちゃんとものごとを感じて考えて話している人だと思った。教典みたいなものを自分のなかにインストールして相手のことばに合わせてそれを再生する人ではない。
私は彼女の名前を呼んでみた。なんですかと彼女は言った。あの、私のこと、とろいと思ってますよね、と私は言った。彼女は笑って、まあそう思うときもありますとこたえた。私は自分の立場と能力について説明し、私も精進します、でもやむを得ない部分もあるのであんまり苛々なさらないでください、と頼んだ。彼女はひっそりと笑い、やっぱり私が苛々してるのは伝わってたんですね、と言った。
隣にいた女性はあの男性と諍いや和解をするんだろうかと私は考える。しないんじゃないかと思う。だって相手の話を心の中に入れずに準備されたことばを返すだけなら苛々しないし、相手をいけすかないと思ったりもしない。よかったと私は思った。明日までこの知らない土地で一緒に仕事をする彼女がそういう人でなくてよかった。お互いに気に入らないと思ったり意外と良い人だと思ったりできる人でよかった。