傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私がこの部屋のなかで腐乱してゆくことについて

腐乱死体になるのが怖いと彼女は言う。離婚を考えていると話して、そこからほとんどひといきに、でも将来孤独に死んで誰にも発見されずに部屋で腐るのがいやだと言う。
私はその話にいまひとつ乗れずに、腐乱したってまあいいじゃないと言う。だって死んだら意識はないんだから、焼かれる前にちょっとばかり腐る時間があっても自分ではわからないでしょう、もちろん生きているうちにそれを想像するとぞっとしないから、確率としてそれが起こりにくいようにしておくのが望ましいとは思うけれども。
死ぬのは怖い。もちろん怖い。けれども腐乱することについては、怖くなるまで想像が及ばない。死ぬのは怖いというところで、私は止まる。死の怖さは特別な怖さで、それが確実に自分の身に起きるということを緩衝材なしに認識しなおすと、ほかの何とも似ていない恐怖がすみやかにやってきて、私の心のリソースを根こそぎ奪ってしまう。私はそこから先に一歩も進むことができない。
だから私は彼女の心配について、その段階まで孤独感を味わうのが怖いという意味だととらえるしかない。実のところ、それについても私はよくわからない。「現代日本人・孤独死に近い選手権、三十代女性の部」みたいなのがあったら、私はかなりいい線をいくと思う。都道府県代表戦に出られるかもしれない。でも私はそのことをそれほど恐ろしく感じない。
だって生きていれば必ずさみしいからだ。私は自分からさみしさがなくなったところを想像することができない。私はいつもさみしい。さみしさにはそのときどきのかたちがあり(とげとげしているとき、じとじとしているとき、毒の煙を吐きだすとき、つるりと円くて決して動かないとき)、私はいつでもそれを取りだしてとっくりと眺めることができる。それはいつも私の中の手の届くところに、私のリアルな生活の近くにある。
誰かと暮らしても、自分の子を産んでも、それがなくなるとは思えない。それは私にとってあまりによくなじんだ自分の一部であり、自分の輪郭を切りだすナイフのようなものでもある。
もちろん、ひとりで死ぬよりは人に見守られて死んだほうがいいだろう。でも私にとって、それはさみしさに関する問題ではない。私にとってそれは「充実した心楽しい人生を送りたい」という欲望の一部をなす課題であって(他者と親密な関係を持っていればもちろん充実や楽しさを感じる。死にそうなときだってそうだろうと思う)、死そのものへの感覚やさみしさとはあまり関係がない。私はいつもさみしく、他者はそのさみしさのかたちが変わるプロセスに関与することこそあっても、取りのぞくことはできない。
孤独腐乱死が怖いと繰りかえし彼女は言う。私は自分の部屋に帰る。そうして、生きていることは怖くないのかしらと思う。いつもいつもこんなにもさみしいのに毎日おいしくごはんを食べて話して笑っていい気持ちになって生きているなんておそろしいことだ。私がこの部屋のなかでなにかの拍子にふと死んだあとそのまま腐ることについては、それほど怖いと思わない。