傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幸福の貧困なイメージ

今日は何してた、と訊くと、だいぶ寝坊した、と彼女はこたえた。
それで家の、彼の家の近所に食事をとりに行って、うん、あの人あったかくなると料理しなくなるのね、それで今あの人の冷蔵庫は空なの、そして私たちはとても大きなサンドイッチを食べてコーヒーをのんでおしゃべりをして、そのあと公園を散歩した、ばらの花の咲いている公園、花屋さんのばらは蕾のうちに売るでしょう、公園のばらはだらしなく開いて牡丹みたいで私は好き、それから彼はプールに行って、私はここへ来たの。
そういうのを甘い生活というのではないかしら、と私は言った。私たちは大仰な建物の高いところにある宇宙船のような美術館を出て、大きなガラス窓からミニチュアの都市を観ていた。足下の部分は建物の庇しか見えなくて、私は少しつまらなかった。私は高いところに行って怖がりながら下を見たときに足首と胃の底がこまかく波うつ感じが好きだ。
彼女はゆったりと笑ってから、じゃあ辛い生活ってどんなのかな、と言った。私はあまり考えずにこたえた。こんなにも美しい日曜日なのに寝坊できない、隣に恋人が寝てたりは絶対しない、さわれるのはがさがさした毛布だけ。朝ごはんは乾パンと古くなったスキムミルク。粉のをぬるま湯で溶いてあってときどきダマがある、五分で食べないと怒鳴られる、とにかくすぐ怒鳴られる、下劣なかんじのやつに怒鳴られる。それが辛い生活。
軍隊のよう、と彼女は言った。朝ごはんのあとはよくわからない歌をうたいながら走らされるんじゃないの。もちろん走らされる、と私は言う。でもそこに誇りや使命感があっちゃいけない、そこが軍隊とはちがう。
彼女はリズミカルに笑う。私は彼女に、不幸について考えるのはどうしてこんなに楽しいんだろう、と訊いてみる。不幸はいやだけれど、不幸な状態について考えるのはすごく楽しい。
幸福は退屈だから、かな、と彼女はこたえる。どこかの作家もそう言ってたと思う。たとえば私の今日の「甘い生活」だって、要するに平穏と充足と快楽があればいいのよね。ふたりじゃなくてひとりでもいいし、家族という単位もある、それに場所が景色の美しい田舎だったり便利な都心だったり、公園やプールが自分の庭だったりしてもいい、でも結局、ゴージャスになる、または所有する、それだけのちがいしかない。昔の人だって、地獄は何層もつくっていろんな種類の苦しみを描いたのに、天国の描写はなんだか通り一遍でしょう。
私たちは大きな窓を離れる。
そういえばこういう寸劇があったよ、と私は言う。主人公は無理心中しようとするおじさん。息子に言いきかせる。これから天国へ行くんやで。息子は天国ってどんなとこ、と訊く。おじさんは考える。天国いうたらおまえ、道がこうあってな、かたっぽにはずーっと飲み屋が並んでてな、いくら飲んでもええねん、そいでもうかたっぽにはパチンコ屋がずーっと並んでてな、どこで打っても負けへん。
彼女はひどく笑って言う。あなたの関西弁へたすぎる、ねえ、私たちはそのおじさんを笑えないね、私たちの幸福のイメージはとても貧困で、そのおじさんとたいして変わらないんだものね。
彼女はそれから降りてきたエスカレータを仰いで言う。あれは幸福、それとも不幸。私はエスカレータの上の美術館のエントランスの、宇宙船のコクピットの窓のようなスクリーンを確認して言う。あれは幸福にも不幸にも分類できない美術家のパフォーマンスだよ、私はそういうのを観に、ときどきここに来るの。