傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

音楽を好きになりたかった

音楽をはげしく求めたことがない。音楽に対して、私はいつも受動的だった。ときどき周囲の誰かが音楽を選んで、カセットテープや、MDや、CD-Rに入れて、私にくれた。私はそこから気持ちよく聴けるものを選んでTSUTAYAに行き、同じ人が出しているものを借りた。どうかすると何日も音楽を聴かないこともある。覚えているかぎり以前から、私はそんなふうだった。
そういう話をすると、まじすかと彼は言った。まじ、と私はこたえた。彼は笑って、今の似合わないですと言った。私は少し反省した。若者たちと話すと、くだけたことばを使いたくなってしまう。珍しいことばを使えるのがうれしいのだ。まじというのは実のところ、私が十代のころからある表現だけれども。
驚きあきれました、と彼は言った。あさまし、と私は訳した。あれっていいことばですよね、復活させればいいのに、と彼は言った。それからふうとため息をつき、改めてお説教の口調をつくった。
音楽を真剣に聴かないで、青春の衝動や焦燥を何に仮託してたんですか。音楽って二十歳すぎくらいまでのよくわからない衝動にダイレクトに、インスタントに利くじゃないですか。小説とかそういうまどろっこしいものの出番はそのあとです、だって消費するのに何時間もかかるじゃないですか。
私はもごもごと言い訳する。きっといろんな人にとって、音楽ってそういうものなんだろうね。でも私にとってはそうじゃなかったの、ないとちょっと寂しいけど、でもそれだけだった。かといって物語を求めていたのかというと、それもあやしくて、覚えているかぎり昔から、字が書いてある紙があればそれだけでわりと幸せなの。本にはいっぱい字があるからすごく幸せだけど、広告とか、食べ物のパッケージの原材料の表示とかでもね、なんか書いてあればそれで。あんまり文化的でないと思うよ、少しはずかしい。
健康で文化的な最低限度の生活、と彼は言った。名文だよね、と私は言った。
原材料表示をじっくり読んでるところを想像するとなんかかわいそうだから「最低限度」の水準をもうちょっと上げたほうがいいと僕は思う、せめて本のかたちをしているものを与えてあげたいと思う。それはともかく、音楽なんかなくても生きていけるし、健康にも文化的にもなれるんでしょうけど、でも、その時期は音楽がないと死ぬかもしれないって思うんです、十代だと結構な数の人がそうだろうし、ある種の人間はそのあともしばらくそうだと思います。
彼はそう説明し、私はそうかあとこたえた。そういう受けこたえってあんまりかしこそうに見えないですよ、と彼は忠告した。私は少しのあいだ、利口そうに見える受けこたえについて考えた。
そしたら焦燥とか衝動とかどうしてたんですか、と彼は訊いた。聞いてると今とおんなじようにわりと漠然としてたみたいですけど、まさかそれで平気だったってことはないですよね、へんな暴走をしてこその十代だというのに。
もちろん私にも、よくわからないエネルギーはあった。そしてそれをどうにか吐きだしたい気持ちにもなった。でもそれをうまく載せる場所が見つからなかった。音楽はおそらく、私にとって適した器ではなかった。ほかの器も見つからなかった。私はただそれをためこみ、精神的にのたうちまわるしかなかった。私だってほんとうは音楽が好きになりたかった。そしてある時期からそれを切実に必要としなくなり、ああ私も大人になったなあ、というふうに思いたかった。ただのたうちまわるのはかなりきつい経験だし、後になっても浄化された美しい思い出みたいにはならない。
そのことがうまく説明できなかったので、私はただ、あんまり平気じゃなかったと言った。あんまり平気じゃなかったよ、私だって、音楽を好きになりたかった。