傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

物語的文法の再現

ちかごろ食器が次々に死ぬの、と彼女は言った。昨日はコーヒーカップの取っ手が取れた。先週は流し台に置いたグラスが割れた。その前はパスタやカレーに使っている大皿が欠けた。
寿命かなと私は言った。ひとり暮らしをはじめた頃に揃えたんなら、そろそろ寿命だよね。たぶん、と彼女はうなずく。でもさ、と私はつけ加える。なんだかなにかの予兆みたいにも見えるね。彼女は意味ありげな視線をよこして言う。
台所のものたちが唐突に、そして静かに死んでゆく。それってなんだか生活が軋んでいく音みたいじゃない。私が毎日立つ台所、私の小さな世界の秩序の中心、私の火と私の刃物のあるところ、そこが静かに瓦解していくという感じ。
私も彼女の真似をして意味ありげな口調をつくる。これが小説ならあなたはさしずめ、その小さな世界にひそかに苛だちを感じている、というところだね。ちょっとした波乱がありながらも順調な仕事、長いつきあいのやさしい彼氏、静かに老いてゆくものわかりのいい両親、あたりさわりのない話題だけをやりとりする古い友だち、そんなおなじみの世界に。自分は幸福であるはずだという思いこみの裏に、存在すら忘れていた古い抑圧や、ちかごろ育ってきた凶暴な衝動が隠れている。そしてあなたの食器はその余波で死につづける。
彼女は愉快そうにこたえる。すでに何かが起きているのに無理に生活だけを保っていて、それが台所からほころびはじめている、という路線もいいね。たとえば彼氏がすごくひどいことをしたとか。でも彼は何気ない顔をして毎週うちに来るし、私も知らないふりをして彼を迎えいれる。そしてごはんを作って一緒に食べる。それを載せる食器たちは静かに死に続ける。
彼女は三秒の間をあけてから、あのさ私たち妄想しすぎじゃない、と言った。しょうがないよと私はこたえた。だって私たち、本ばっかり読んでるんだから。大量に入力したらある程度は出力もされてしまうものだよ。
でもこれは現実だよと彼女は言う。現実は地の文じゃない。だから暗喩もない。私のお皿はただ割れただけなの。
もちろん、と私はこたえる。もちろんこの世界に暗喩はないし、お皿を割ることができるのは物理的な力だけだよ。でも私たちは大量の物語を消費してきた。だから勝手に喩えを読みとってそれに従うことはあるかもしれない。
彼女は視線でくるりと円を描き、それからたのしそうに、まあこわい、と言う。私、食器が壊れるのにかこつけてどこかに隠しておいた感情を引っぱりだしてきてしまうかもしれない。後づけでものごとに個人的な意味をくっつけてしまうかもしれない。物語的な文法を自分で演じてしまうかもしれない。