傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

小さいことを考える

今日は何してた、と彼女が訊くので、久しぶりに会ったのに「近ごろは何してた」じゃないのか、ちょっと変わってるな、と思って、でもこたえた。
昨夜のうちに洗っておいた洗濯物を脱水して干してから家を出て、そう、冬物をちょっとずつ洗ってるの、駅で転んで足首をひねって、うん大丈夫、でもテーピングしたところがかゆい、えっと、仕事は、会議に出て、書類つくった、ここの突きだしはおいしいねえ、筍もそろそろおしまいだねえ。
筍、と彼女は言った。うん筍、と私はこたえた。そういうのってどうして考えるの、と彼女が訊くので、そりゃあ筍はおいしいからだよと私はこたえる。下ゆでしたての筍ってとうもろこしみたいな匂いするよね、あれってなんなのかな。
なるほどと彼女は言い、質問を重ねる。仕事仲間となにかしゃべった。私はビールをごくごく飲んでそれを思いだす。えっと、今日は、うわさ話、急におしゃれになった人がいるの、恋かしら、きゃあ、みたいな話、あと、ぺんぺん草はいつ生えてるのかっていう話もした。
言うだけ言ってから、私は彼女の顔を見て、その話題への説明を求める。このところ大きいことばかり考えてるの、だからそういう話ききたいと思って、と彼女はこたえた。
大きいこと、と私は言う。大きいこと、と彼女は言う。子ども手当てのニュースを聞いて、このままでは少子化は進むばかりだ、税制はどうあるべきか、みたいなこと考えたりとか。
いいねえと私は言う。立派な大人という感じがするよ。彼女は顔をしかめてメニューに目を落とし、たっぷり数十秒たってから、黒龍にする、と言い、それから私に向きなおった。
あのね、その立派な感じが良くないと思うの、私にとっては、それって不健康な状態なのよね、そういうときはさ、ニットの手洗いとか筍の下ゆでとか、ぼさぼさ髪だったあの人がヘアワックスを使うようになったのはなぜかしらとか、そんなことばっかりこまこま考えてる人間としゃべって、リアル・ライフへの関心を取り戻さなければいけないの。
よくわからなかった。大きいことを考えるのがなぜ不健康なのだろうか。彼女は少し空を見て、それから言う。
もちろん大きいことを考えること自体は悪いことじゃない、でも私の場合は、何かから逃避しようとしたときにその傾向が強くなる。だから自分で気をつけてる。個人としての充足を感じにくいときにカテゴリとしての充足を求めることでその代替としているんじゃないかって思う。カテゴリってあれよ、会社員とか女とか母親とか日本人とかそういうの。
私はひどく納得して三回うなずいた。カテゴリとしてこうむる影響はもちろん、個人の幸福に深く影響する。だから私たちはそのことを考慮し、行動に反映する。それは自然なことだ。彼女が言いたいのは、そのことが度をすぎたとき、逃避としての側面を持ちはじめる、ということだろう。
個人としての充足はいろいろな要素に左右される。自分ではどうにもならないことも多い。だからそれを感じにくいとき、特定のカテゴリに付与された誇りにしがみつく。そういうことはよくある。
そのカテゴリが大きければ大きいほどまずい、と彼女は続ける。母として、はとくに要注意、だって簡単にいろんなことが正当化できちゃうから。しまいには「日本人として」とか考えだしてね、そこまで枠を広げないといい気持ちになれないなんてかわいそうな人みたいじゃない。だからこの一週間、意識して食べるものとか熟考して決めてるの、それにしたってあなた、小ささにも限度ってものがあるでしょう、ぺんぺん草は小さすぎるわよ、いくらなんでも。
私ははずかしくなって、私だって少しは小さくないことを考えるよ、と言った。