傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

行かないかもしれない

台湾料理屋の前を通りすぎて、彼は言う。台湾かあ。行くかな、これから。私はこたえる。行くかなあ、行かないかもしれないね。
それから私は小さい声で言う。ちかごろ、世界のいろんなところに、私は行かないかもしれないって、そう思う。ほんのちょっと前までは、行くっていう確信はなくても、行こうと思えば行けるような気がしていた、その前は、どこに行くような気もしなかった、どこにも行けないと思っていた、今は、行けると思う、でももしかすると行かないかもしれないと思う。
彼もやっぱり小さい声で言う。僕は小さいとき、当然のように世界のどこにでも行くつもりでいた、ピラミッドとか当然行く、ジャングルにも、石造りのお城にも、馬の駆ける草原にも。
幸福な子ども、と私は感想を述べる。彼は少し笑う。
私が世界の多くの場所に行ったことがないのは、どうしても行こうとは思わなかったからだ。旅行先を決めるとき、そこを選ばなかったから。仕事で行く機会もなかったから。けれども、あるときに行こうと思わないのと生涯行かないのでは、話がまるでちがう。
台湾なんて近い。行こうと思えばすぐに行ける。なんなら次の次の週末にだって行ける。
でも私は、生きているあいだに、それを行動にうつすだろうか。うつさないかもしれない。かわりに香港や上海に行こうと思うかもしれないし、近場の温泉がいいと思うかもしれない。私は行かないかもしれない。ピラミッドに、ジャングルに、石造りのお城に、馬の駆ける草原に。
私はどうして、行くかもしれないことより行かないかもしれないことを強く感じるようになったのだろう。
そう尋ねると、死ぬから、と彼はこたえる。自分が死ぬことがわかってきたから、持ち時間も情熱もそれほどたくさん残っていないことがじわじわとわかってきたから。だからだと思うな。
死ぬのを理解するのって少しいやだね、と私は言う。死ぬことそのものはもちろんいやだけれど、でもいつかは絶対に死ぬってわかってしまう、からだの芯から理解してしまうのも、やっぱりいやだ。
そうかなと彼は言う。それはそれで悪くないんじゃないかな、死ぬ直前まで永遠に時間があるような気分でいるのも格好良いけど、順当に老いていくのも、そんなにひどいことじゃないと思うよ。